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276(06/07/13)
踏切番の思ひ出。

 さて。今月は執筆月間である。とある信号保安機器メーカーの周年史執筆が原稿用紙170枚、某書籍用の原稿が約40枚、などなど。取り急ぎ、着々と信号保安機器メーカーの社史を執筆しているところだが、踏切事故防止用の警報装置やら特殊な信号機に関する資料をつらつら見ながら、子供時代のことを思い出してしまった。

 昔々、まだ昭和30年代末期のことだが、自宅のすぐ裏手を阪急電車が通っていて、近くには踏切があった。専門用語的にいえば第1種踏切、要するに踏切保安掛=踏切番のおじさんが駐在している踏切である。元祖SLオタクの父を持ち、子守歌代わりに電車の通過音を聞いて育ったこともあって、電車は大好きだった。小学校1年の時には、踏切の絵を描いて絵画コンクールで入賞したこともある。小学校の朝礼で全校生徒の前で表彰され、市役所でも展示された。

 時間さえあれば、新聞折り込みチラシ裏面の白紙と木の枝で旗を作り、踏切で行き交う列車に旗を振っていた。そんな僕が、踏切番のおじさんと親しくなるのに、時間は必要なかった。いつの間にか、踏切小屋(踏切番舎と言うらしい)に入り浸りになり、機械が並んでいるところで、おじさんと遊ぶことも度々だった。たぶん、規定上は他人が入ることは許されない小屋だったとは思うが。

 ある日、乗り始めたばかりの自転車で通りかかると、踏切番のおじさんが僕を手招きした。何かと思えば、「ケーキをあげるよ」というのだ。当時は誕生日かクリスマスにようやくケーキが食べられる時代。イチゴショートケーキだか何だか忘れたが、「こんな“ごちそう”をもらっていいのだろうか」と自問自答しつつも、欲望は抑えきれず、しっかり箱ごと戴いた。

 ところが家に持ち帰ると、お袋から「知らないおじさんからモノをもらってはいけません」と厳しく叱られた。美味しそうなケーキは、結局、僕の口には入らず、しくしく泣いたような記憶がある。それ以来、踏切小屋にはあまり近づかなくなってしまった。

 いま中年男になってみると、当時の踏切番のおじさんの気持ちが少し分かるような気がする。小学校に上がったばかりのハナ垂れ小僧が親しげに寄りついてくるのだから、自分で言うのもナンだが、とても可愛い坊主だったことだろう。ケーキの1つも、あげたくなる。いつしか踏切は自動警報機付きの踏切になり、踏切小屋は廃止された。あの踏切番のおじさんは、どこへ行ったのだろう。そんなことを、時々思い返している。

 そう言えば、投身自殺だったと思うが、隣の踏切でバラバラ死体を見たこともあった。赤黒い肉片を見て、恐怖におののいたこと、これも記憶に鮮明だ。

 ああ、こんなこと思い出している場合じゃないや。原稿書かないと。

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277(06/07/13)
「フォークの達人」スタジオ収録へ。

 さて。NHKのBS2で月イチ放映されている「フォークの達人」に山崎ハコが出演することになり、昨夜ライブ公演の収録が原宿のライブハウスであった。運良く抽選に当たったので、観客席にて収録の模様を眺めさせていただいた。放映は9月1日。いつも通りなら、たぶん夜の22時からだろう。

 この日はゲストに、「呪い」といういわくつきの曲(わら人形にトントンと釘を打つ歌)を広めた張本人である大槻ケンヂ、かつて一緒に芝居に出演した根岸季衣も出演して、いつものハコのコンサートとはひと味違った雰囲気。BSとはいえ、これだけメジャーな1時間半もある番組に山崎ハコが出演するのはめでたい限りだ。彼女は今年デビュー30周年。僕も30年間ファンを続けてきた喜びに浸った一夜であった。

 ハコについては「隠れ名盤 世界遺産」のコンテンツでたっぷり書いているが、僕にとって彼女の歌だけは特別な感じがする。ふだん四六時中、欧米を中心とした洋楽をかけっぱなしにしている僕は、気持ちよくなる音楽については山ほど知っているが、山崎ハコの歌だけは「心にどすんと響く歌」なのだ。昨夜は「未来の花」という曲の歌詞がビシビシ琴線にふれてきた。

 「涙なんかは、使い切っちまえ」「希望なんかは、使い切っちまえ」。こんなに力強く人生を生きていこうと踏ん張った歌詞が、他にあるだろうか。

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278(06/08/07)
今年の唯一の収穫か。

 さて。嬉しい悲鳴と言うべきだろうが、どうにもこうにも、忙しい。この1カ月で原稿用紙200枚は書いただろうか。あと一週間くらいで、最初の山を越える。ホームページの更新も、すっかりサボリっぱなしで、アクセスは急降下。やむを得ない。

 今年の家庭菜園は、例年以上の放置プレイが災いしたのか、カボチャは失敗、スイカも失敗。枝豆だけが唯一の収穫かも。

 ゴーヤも植えたが、長い梅雨で日照時間が短かったせいか、今のところ、実がなる気配さえない。ようやく夏らしい気候が続いているので、ほのかな期待はつないでいるが。

 ということで、再び原稿執筆へ。このような生活をしていて、長生きはしませんな。ま、好きで選んだ仕事ですから。

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279(06/08/14)
仕事場の床が見えた。

 さて。ようやく某社の社史181枚(第一稿)を書き上げ、ホッと一段落。資料が散乱した仕事部屋の片付けを始め、はや3日目。ようやく、床や壁、机の地肌が見えてきた(苦笑)。そういえば、以前に掃除をしたのは去年の秋だったろうか。

 これまでも掃除したいのは山々だったが、社史を執筆するための資料は非常に多く、複数の社史を掛け持ちしているので、ここから左はA社の資料、ここから右はB社の資料という具合に、部屋の場所に応じて置き場所を明確に区分けせざるを得ず、資料を移動させて掃除機をかけると資料の散逸を招くため、我慢に我慢を重ねていたのだ。

 今回、掃除を始めたら中途半端では納得いかない気分で、相当、根本的に整理整頓した。たまった音楽MDの編集作業も、結構時間のかかる仕事だった。近々、新しい本棚を購入して、もっと機能的な仕事部屋にしよう。

 気分一新、間もなく、次の仕事にとりかかる。今度、掃除できるのは年末か年明けになりそう。

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280(06/08/16)
映画「太陽 The Sun」を鑑賞。

 さて。昭和天皇を題材にした、ロシア・イタリア・フランス・スイス合作映画「太陽 The Sun」(監督/アレクサンドル・ソクーロフ)を見てきた。別にわざわざ、この日を選んだわけではないが、諸々のスケジュールを勘案して、15日に鑑賞した次第。

 日本では公開不可能ではないか、と言われた同作品の公開に踏み切った銀座シネパトス1は連日の大入り満員だそうで、同2でも上映を開始。この日も、全回立ち見客ありの盛況ぶりで、ようやく最終回で着席の上、鑑賞することができた。

 作品は昭和20年の8月、終戦前後の皇居が舞台。戦火が激しさを増すなか、地下の待避壕で戦争終結に思いを巡らせながら日々を送る昭和天皇の姿が、終始、重苦しい雰囲気のなかで描かれていく。ソクーロフ監督は、映画「モレク神」でヒトラーを描き、「牡牛座」でレーニンを描いた監督のようで、自身が計画している映画4部作のうちの、これが3作目だという。

 率直な感想を言えば、 主演を務めたイッセー尾形の一人芝居と、ソクーロフ監督の描きたかったファンタジーのコラボレーションという印象。歴史の真実を、この映画の中に見いだしたいという観客の欲望は、おそらく、裏切られる。全編が架空の物語めいて進行し、それが映画としての虚構なのか、皇居という空間そのものの虚構性なのか、にわかには判別しづらい。東京大空襲が、昭和天皇の夢の中で描かれる点が象徴的だ。

 個人的には、消化不良の印象が拭えない映画だったが、昭和天皇を真正面から描こうとした初めての作品に過大な期待をしすぎたのかもしれない、とも思う。いろいろ困難はあるだろうが、もっと別の視点で描かれた作品も観てみたい。できれば、日本人監督の手による作品を。最後に、万難を排して主演を引き受けたイッセー尾形には、敬意を。

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