【No.132】 2004年3月3日号

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咎(とが)めない大人たち

 電車内でのマナーの問題が、少しばかり話題になっています。主には高校生たちに矛先が向けられているようですが、最近ではJR東日本仙台支社がまとめた2003年度の駅の被害報告で、「苦情の半数は高校生関連」とのニュース(河北新報、3月2日)がネットを駆けめぐりました。列車を破損させる事件が散発しているようで、車内でたき火をした跡まで見つかったそうですから、開いた口がふさがりません。

 スキャンダル報道が大好きな夕方のTVニュースでも、以前、千葉方面のJR車内での、高校生たちの無法ぶりが伝えられたことを覚えています。こちらは車内での喫煙風景が、“衝撃映像”風に面白おかしく伝えられていました。

 興味深いのは、ほぼ同時期(2月28日)に財団法人日本青少年研究所が発表した「高校生の生活と意識に関する調査」の結果です。これによれば、日米韓3カ国のなかで、日本の高校生の公共マナー意識が最も高かったそう。その根拠として、車内での大声の会話や携帯電話の使用を「良くない」と思う比率が、米国や韓国の高校生に比べて高かったことを挙げています。

 高校生の無法ぶりを伝える報道もあれば、一方では、相対的にマナー意識は高いと伝える調査結果もある。真っ向から対立する事実ですが、僕には、両方とも正解に思えるのです。

 先日、こんなことがありました。夕方の混雑する小田急電鉄のなかで、春休み中と思われる高校生3人が、床に座り込んで携帯電話のゲームに興じていました。座り込んでゲームをする程度は許容するとしても、音量調節も無しにゲーム音を鳴らし、大騒ぎする様は、明らかに不愉快なものでした。でも、誰も注意しない。誰も彼らを咎(とが)めることができない。

 そんな時、僕はどうするかというと、しばらくは様子を見ながら我慢はしますが、周囲への迷惑を顧みるそぶりがないと見ると、ハッキリ注意します。チョンチョンと身体をつついて、「音を消しなさい」と。すると、ちょうど彼らが降りる駅に電車は滑り込み、離れ間際に、僕に向かって「申し訳ありませんでした!」と言ってペコリと頭を下げるではないですか。これには驚きました。意外な反応に、僕は思わずニッコリと微笑んで深く頷きました。とても気持ちの良い高校生でした。

 以前から、僕にはこういうところがあります。映画館で走り回る子供には注意(できるだけ優しく)をするし、音漏れを気にせずヘビメタ音楽を周囲に振りまく若者にも「うるさいよ」と注意をします。車内で食べたパンの袋を網棚に捨てていこうとする男性に、「持って帰れよ」と押しつけたことも……。一年に数回はそんなことがあるでしょうか。

 本当のところを言えば、注意しながらも、反対に逆ギレされないかと内心ドキドキはしているのですが、おおむね、注意された本人は渋々にせよ、従順に言うことを聞きます。なかにはメンチを切ってきた高校生もいましたが、僕もメンチを切り返して応酬します。明らかに力で負けそうな相手には、注意をせずに知らんぷりするズル賢さも、同時にあわせ持ってはいますが……。

 昔は、口うるさい大人が、少なからずいました。具体的な記憶はありませんが、叱られた経験も幾度かあったように思います。そんな経験が積み重なって、「周囲の目を気にする」ような当たり前の感覚を醸成してもらったのでしょう。

 こうした公共マナーというものは、教師が口やかましく言えば済むような問題ではありません。親がしつけをすれば済むとも言い切れません。ましてや、鉄道事業者に指導責任を押しつけるなんて、もってのほか。

 彼ら(彼女ら)が主に所属している(身を置いている)「場」のなかで口酸っぱく言われても不十分なわけで、そのつど周囲を取り巻く不特定多数の人間の顔ぶれが変わるような、例えば車内のような「場」でも見ず知らずの大人が咎めてこそ、「やってもいいこと」と「やってはいけないこと」の分別は、刻まれていく。その、肝心の「咎める大人」がいないことに、僕はいつも腹立たしさを覚えてしまいます。

 冒頭の話題に戻せば、おそらく、日本の高校生は少なからず公共マナーの意識というものを持っているのでしょう。でも、マナーを逸脱しても誰も叱らない。咎めない。だから暴走に向かってしまう。両方とも正解と思えるのはこのためです。僕だって、今のような“何でもあり”の環境のなかなら、暴走する高校生の一人になっていたかもしれません。

 明日の日本を担うべき若い人たちが暴走のスタートラインに立とうとしたときに、大人たちは咎めようとしない。考えてみれば、仮に、大人に無軌道な若者を諭す役割があるとすれば、実は実は、大人がいちばん、やるべきことをやっていないのではないか、とさえ思えてくるのです。

 若者は注意すれば何をしでかすか判らない……このようなイメージは、たぶん、スキャンダラスな話題が大好きなマスコミが作り上げた幻影ではないか、と睨んでいます。そんな幻影に振り回されて大人が尻込みしていたら、暴走はどんどん広がってしまう。暴走を食い止めてくれと鉄道事業者に訴えても、そんな遠回りな注意しかしない大人たちを、暴走する当の本人たちは、あざけり笑っていることでしょう。そう、「お父さんに怒られますよ」と遠回りな叱り方をする母親を、子供が馬鹿にするのと同じように。

 とはいえ、難しいのは幼児の場合ですね。先日は某耳鼻科で、やんちゃな幼児を目撃しました。備え付けのぬいぐるみを投げるわ、絵本をばらまくは、悪戯の限りを尽くしています。母親は、しっかりと注意をするし、丹念に過ちを諭そうとしていました。なかなか熱心なお母さんでしたが、それでも幼児は言うことを聞かない。

 このときは、幼児を叱るかどうか、さすがに迷いました。結局黙って見ていたのですが、ひとこと言うべきだったなあと少し後悔しています。母親には甘えられても、見ず知らずの“恐そうなおじちゃん”から叱られることもあるのだと思い知らせることは、結局はお母さんのためにもなっただろうに。

 子供の教育は、両親だけの責任でもなければ、教師だけの責任でもないのでしょう。むしろ、そこにばかり押しつけて、周囲が知らんぷりしてきたツケが、いま社会全体を覆っているのではないか。僕個人の反省も含め、そのようなことを、最近、つくづく思うのでした。

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