1970年の放浪
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1970年は、若者たちがさまよい始めた年だったと思います。1960年代末期に学生運動はピークを迎え、シンボル的な存在だった東大安田講堂の砦が、1969年1月、機動隊によって陥落させられました。学生運動の一派だった赤軍派は70年3月に日航機「よど号」をハイジャックする暴挙に出ましたし、各派とも内ゲバリンチ事件が後を断ちません。そして、日米安保条約の自動延長を巡る「70年安保」運動は、今イチ盛り上がらない。学生運動に対する大衆の理解や支持は一気に冷え込み、学生運動が求心力を失って、若者たちは居場所を見失い始めたのです。 おりしも、翌1971年は「シラケ」が流行語になり、これ以降しばらくの間、若者たちは「シラケ世代」と呼ばれました。「何に対しても情熱がもてない、何の目標もない若者は嘆かわしい」と年輩者たちに揶揄されたわけですが、まさしくその世代に属し、学生運動の洗礼をまったく受けなかった私には強い反感がありました。確かにシラケているかもしれない、熱中できるものはない、だけどだけど、だけどさあ……。 当時はうまく表現できませんでしたが、簡単に言ってしまうと、わかりやすい指標がなくなっただけのことなんですよね。昭和30年代に若者だった人たちは「戦後復興や収入アップをめざして頑張って学び、働く」ことで熱中できた。40年代に若者だった人たちは「ヘルメットかぶってデモに参加し、シュプレヒコールをあげる」ことで熱中できた。周囲に同じような価値観をもった仲間がいっぱいいたわけですから、その中に身を置いているだけでも熱い気分になれたわけです。もちろん、周りには流されず、自分の意志でこれらに熱中した人もいたのでしょうが。 「毛沢東語録」を懐に忍ばせ、ヘルメットをかぶっていた若者たちは、やがて散り散りになっていきます。学生運動、革命運動に執着する人々は翌71年にピークを迎える成田空港建設反対の三里塚闘争へ、急進派の人々は連合赤軍に加担して集団リンチ事件、あさま山荘事件(72年2月)へと突き進んでしまいます。学生運動から巣立って個別の社会問題に関する運動へ流れていった人たちもいました。部落解放運動、障害者解放運動、女性解放運動、反原発運動などです。とりあえずは就職し、企業で労働組合運動に精力を傾けた人もいたでしょう。一方で、こうした運動に距離感を置き始めた多くの若者たちは、これから何を頼りに生きていったらよいものか、悩み始めたんですね。 そんな時代の空気を象徴するように、1970年は人生論カテゴリーの本がよく売れました。ベストセラーのランキングは他項に譲りますが、『誰のために愛するか』(曽野綾子)をはじめ、辻説法ものの本も売れましたし、翌年ベストセラーになった『二十歳の原点』(高野悦子)も話題になりました。僕は友人に薦められて、『詞集たいまつ』(むのたけじ)や武者小路実篤の本などを読んでいましたっけ。 個人の生き方相談を引き受けたのは深夜のラジオ放送です。有名な番組とDJ(パーソナリティ)には「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)の糸居五郎さん(ゴロー)や亀渕昭信さん(カメ)、斉藤安弘さん(アンコウ)がいました。「セイ!ヤング」(文化放送)の土居まさるさん、落合恵子さん(レモンちゃん)、みのもんたさんも人気を博しました。 地方のAM局でも個性的なDJが揃っていて、ラジオにかじりつく若者たちはDJという「心の友」に、ペンネーム(後のラジオネーム)の匿名性を借りながら身の上話を打ち明けたのです。ラジオの向こうの「心の友」がどの程度、リスナーの人生相談に真正面から答えていたのかは記憶にありませんが、少なくとも、心のモヤモヤを解毒してくれたのは間違いありません。深夜放送を聞くために徹夜していた若者は当時、「フクロウ族」とも呼ばれていました。 人生論本を読みふけり、深夜放送のDJに人生相談をする若者に対して、年輩者たちは「自分の人生は自分で決めろ、人の意見に左右されるでない」と諭しました。でも、当時の若者たちには馬の耳に念仏だったでしょう。本音を吐露できる相手をもたず、悩みを放ったらかしにして日々の快楽に邁進する一部の若者より、悩み、彷徨い始めた彼らの方が、ずっとマシだったような気がします。 ●関連情報 何しにやってきた? 西新宿地下「通路」に集まる若者たち 新宿駅西口地下通路に、用もなく集まってくる若者がいる、という朝日新聞の記事を発見しました。西新宿の地下街は、フォークゲリラ、今で言う街頭ライブ(ちょっと違うけど)のメッカで、学生運動の流れを汲んだメッセージ性の強い反戦フォークソングが聴衆と一緒になって歌われ、公安当局の監視も強かった場所です。 そんなフォークゲリラが機動隊によって一掃されたのは、ほぼ一年前の1969年6月。ドキュメント映画『地下広場』には当時の一部始終が熱く記録されていますが、これによれば、当局によって突然「広場」が「通路」に変更となり、通路なのだから立ち止まってはいけないという理屈で、集会が禁止されたのでした。そんな地下「通路」に、警戒が厳しいなかで若者たちが集まってきた理由は? もしかしたら、熱かった日々への郷愁だったのでしょうか。 |
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当原稿執筆/2001年7月18日、9月5日加筆訂正 当ホームページに掲載されている原稿の無許可転載・転用を禁止します。すべての内容は日本の著作権法及び国際条約によって保護を受けています。 Copyright 2001-05 tomoyasu tateno. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. |