1970年の遊び場
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ゴム跳びや缶蹴り、キャッチボールにバドミントン……30代後半以降の方なら、一度は道路で遊んだ記憶があるんじゃないでしょうか。遠く離れた公園までわざわざ行かなくても、家のすぐ前の道路が遊び場になった。しかし、安心して遊べた道路はやがて、自動車に独占されていきます。その転機となったのが、この頃でした。 1970年の前半、東京版朝日新聞で頻繁に掲載された交通事故に関する記事があります。それは、裏道路地での交通事故多発でした。主に都内での事故ですが、幹線道路の交通渋滞が激しいため、抜け道として裏の路地を通る車が増え、その結果、車に跳ねられるケースが増えたわけです。子供の遊び場に、奥様たちの井戸端会議に、ぶらぶら散歩に活躍していた路地裏道路の劇的な環境変化に、地域の住民はなかなか対応できなかったのでしょう。こうした「車の横暴」に溜まりかね、道路上に立て看板を置いて、車の進入を防ごうとする地域もありました。 1970年は、年間の交通事故死が史上ワースト1を記録した年です。その数は16,765人。2000年が9,066人ですから実に1.85倍にもなります。今は自動車を運転する本人の死亡が圧倒的に多いわけですが、当時、いちばんの被害者となったのは歩行者でした(下のDATA参照)。歩車分離の考え方やガードレールの設置は進んでいなかったでしょうから、おちおち道路を歩いているわけにもいかなかった。出掛けに親が子供に「車には気をつけなさいよ」と口酸っぱく言うのは今も昔も同じですが、当時と今では危険度がかなり違うわけですね。 「クルマ憎し」の感情に拍車をかけたのが排気ガスや騒音の問題です。公害については別項に譲りますが、交通事故と排気ガスと車騒音の問題は当時一つの言葉に集約されて「クルマ公害」と称されました。そして、クルマ公害をまき散らす車さえなければ……という気持ちが高まった頃に登場したのが「歩行者天国」だったんです。 誰が命名したのか知りませんが、この「歩行者天国」って凄い言葉だと思いませんか。だって歩行者の「天国」なんですよ。こういう言葉がすんなり定着するほどに、当時のクルマ公害は、さながら「地獄」のようだったということなんですね。もちろん、地獄が天国になったとしても、死んでしまえば元も子もないわけですが。 今の時代に初めて登場したなら、この言葉は使わない。たぶん「歩行者専用道路」「車両追放道路」といった、意味をシンプルに伝える言葉が一番しっくり来ると思います。歩行者天国が都内4カ所(銀座、新宿、池袋、浅草)に登場した次の日、8月3日付の朝日新聞は、一面トップ記事でこのニュースを伝えました。見出しは「道路が人間の手に返った」。今から見れば明らかにハシャギすぎの表現ですが、そんな気分ではあったんでしょう。 ●関連情報 銀座など都内が初めてではなかった「歩行者天国」 各種昭和史の年表などには、ここで記した1970年8月2日(日曜日)の歩行者天国が初めての試みのような書かれ方をしていますが、実は先例があります。国内初めての試みをしたと言われるのは、北海道の旭川。前年の1969年8月6日から12日間、市内の「平和通り」約1キロから車をシャットアウトしました。また大都市ではニューヨークが先例で、1970年7月11日に五番街の約1.2キロが歩行者に開放されました。
●DATA--交通事故死の合計と状態別内訳
警察白書より |
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