1970年の暗雲

 

1970年は、万博にわき、国産宇宙衛星の打ち上げ成功にわき、日本の成長ぶりを実感した一年でした。しかし一方では、急速な経済成長に起因する歪みが露呈した一年でもありました。その代表格が、公害です。同年の新聞を1月1日から12月31日まですべて目を通した上でメルマガを作り、それを元に当コンテンツを作っているわけですが、日を追って見ていくと、とくに同年後半は公害問題に関する話題が多くなり、記事がない日が一日もないほどでした。各地で密かに進行していた問題が、一気にイモヅル式で表舞台に上がり始めた、という印象です。

「1970年は、とても象徴的な年でしたね。 大阪万博で戦後の復興の成果をきっちりと出せたと思っていたら、 この年の夏は公害問題が毎日のようにマスコミを騒がせていた年でもありました。 当時中学1年だった私は、夏休みの宿題の新聞スクラップに公害を選んだのですが、 そりゃあもう、忙しかったのをよく憶えています。 42日間のスクラップ集は、5cmぐらいの厚さになりました。 小学生の社会科の時間では、なんだか夢のある将来を語ることが出来たのに、 中学に入ると、それまでの大きなツケが噴出していき、 希望が持てなくなっていきました。」

……ここでご紹介したのは、メルマガ読者からいただいたメールです。時代の空気がリアルに伝わってくる内容だと思いませんか。この読者と同じ中学1年生だった私はといえば、クラブ活動のテニス部で連日球拾いに走り回り、夏休みの宿題には姿を消す蒸気機関車をテーマに選んでいました。同じ年代でこうも意識が違っていたのかと愕然としますが、毎年訪れていた淡路島の海水浴場がどんどん汚くなっていった記憶だけは鮮明です。

もちろん、公害が1970年から急に現れたわけではありません。公害問題の歴史を紐解くときに必ずと言っていいほど最初に登場するのが水俣病(熊本県水俣市)ですが、その発生が指摘されたのは1956年のことでした。これに続いて、永年風土病として処理されてきたイタイイタイ病(富山県神通川流域)が1961年に確認され、1964年には四日市ぜんそく(三重県四日市市)による初めての死亡者が。そして、第二水俣病とも言われた阿賀野川有機水銀中毒(新潟県阿賀野川下流流域)が確認されたのは1965年でした。四日市ぜんそくは石油コンビナートから排出される亜硫酸ガス、それ以外の3つは単独企業の工場排水に含まれた有毒物によるものでした。

これらは四大公害と呼ばれ、地域住民や一部の先見性ある人々は大きな危機感を募らせていました。だけど一般的には、戦後復興と高度成長をめざすなかでの仕方のない痛み、または必要悪という認識すらあった。当該地域以外に住んでいた多くの国民にとっては「(水俣は、富山は、四日市は、新潟は)大変ねえ」と同情しつつ、「でも、とりあえずウチは大丈夫だし」と、どこか他人事のような印象もあったでしょう。

ところが一部地域だけの問題に思えた公害が、自分の身近なところにもひたひたと近寄ってきた。それが1970年でした。契機となったのは東京都内の大気汚染です。排気ガスが最も酷いとされる新宿区牛込柳町の交差点付近で、住民の体内に鉛が蓄積されていることが明らかとなったのが同年5月。当初はこの地域だけの地形的な特色とも思われましたが、各地でも続々と同様の報告がなされ、都会の住民は色めき立ちました。

これに追い討ちをかけたのが7月に杉並区の高校で発生した光化学スモッグです。誰もが何気なく吸っている大気にも公害が潜んでいることをまざまざと知らされ、公害問題は一気に、国民一人ひとりの問題として印象づけられたのです。日本の誇りでもある富士山の裾野、アブクで埋まった田子の浦港(静岡県富士市)のヘドロの映像も、大きなショックを広げたに違いありません。

こうして、高度成長の栄華を謳歌していた1970年前半のウキウキ気分は、姿を消していきます。でも、ウキウキ気分を失いたくない個人や企業は当然いたわけで、例えばこの年の後半は、公害処理関連の事業を展開している企業がもてはやされたり、大手企業がその分野に進出し始め、そんな企業の株が買われました。「高度成長の副産物である公害をネタに、ますますの経済成長を」という期待があったことは確かです。

その他の企業もこぞって、「人間回復」「自然との共存」をうたったイメージ広告を出し始めました。1990年前後に「エコロジー」が登場し、OLたちが自前のお箸を持参するのが流行した頃、「地球にやさしい」イメージ広告が乱発されたのと、どことなく似ている感じもしますね。

最後に、興味深いサイトをリンクしておきましょう。四日市市のホームページのなかのコーナーで、自治体自ら、公害の歴史をまとめています。

●リンク/四日市公害資料館 http://www.city.yokkaichi.mie.jp/kankyo/kogai.htmリンク集「現代世俗史」より)

●関連情報

環境庁は、公害安全庁だった

日本中に吹き荒れた公害問題への対処を迫られた政府は、民間企業との関係が深い通産省や、医療福祉領域にとどまりがちな厚生省とは別に、公害を抑制するための主務官庁が必要との認識に達しました。これによって1971年7月に誕生したのが環境庁です。当初、1970年7月に新聞で報道されていた官庁名は「公害安全庁」。それが同年末には「環境保護庁」の名称案に変わり、最終的には環境庁になったわけです。
当初案の「公害安全庁」の名称をとりやめた経緯は詳しく知りませんが、民間企業に配慮した名称変更、だったのかもしれませんね。

●DATA--朝日新聞の「声」欄に投稿されたテーマ、上位10テーマ(1970年・年間集計)

1 公害対策 …………2,281通
2 自然と動植物 ……2,090通
3 万国博覧会 ………1,665票
4 世相批判 …………1,465通
5
 進入学と卒業 ……1,009通
6 三島事件 …………999通
7 親子としつけ ……991通
8 公徳心 ……………984通
9 教育制度 …………968通
10 コメと農政 ………955票

※朝日新聞1970年12月31日付より

 

当原稿執筆/2001年7月18日
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