008(05/11/24)世界半周音楽紀行

デイヴィッド・バーン

タイトル「グロウン・バックワーズ」
Grown Backwards

デイヴィッド・バーン(David Byrne)

http://wmg.jp/artist/davidbyrne/(日本のレコード会社の紹介ページ)

 この「音楽(オトラク)生活」では、かつてのロック少年・少女にとって疎遠な、1990年代以降にブレイクした新しいアーティストのアルバムを取り上げたいと思っている。だが、禁を破って、デイヴィッド・バーンの新作を紹介することにしよう。75年に登場し、80年代を代表するバンドの1つとなったトーキング・ヘッズのリーダーによる、ソロアルバム(2004年発表)である。

 一言で言えば、ワールドミュージック系の落ち着いた大人のポップスという感じなのだが、「ワールドミュージック」という言葉は誤解を招きやすいのが悩ましいところ。もともとは、非欧米圏の音楽を「その他」と称する代わりに、この言葉を使っている意味合いが強くて、実態はといえば、ただのアフリカ音楽や中南米系(ブラジル、キューバなど)音楽、各地の民謡の類だったりする。

 確かに、トーキング・ヘッズの時代からデイヴィッド・バーンが、元ロキシーミュージックのブライアン・イーノなどと共にアプローチしてきたのは、アフリカや中南米系、時にはアラブ系の音楽だった。僕自身は特段の感銘を受けなかったが、トーキング・ヘッズが1980年に発表した「リメイン・イン・ライト」は、欧米ロックとワールドミュージック(とくにアフリカ系)の幸福な出会いを果たした歴史的名盤とされている。

 これ以降、トーキング・ヘッズとして、あるいはバンドを離れたソロ活動として、同様の実験的な試みをし、また自ら「ルアカ・ポップ」レーベルを立ち上げて、欧米市場に非欧米系アーティストを紹介する役割も果たしてきた。今でこそ、非欧米系の音楽がFMなどで流れる機会は少なくないが、80年代といえば、まだまだ物珍しさが際立っていた時代。彼の先進性は尊敬に値するのだろう。

 だが、今回紹介する「グロウン・バックワーズ」は、これまでのバーンの試みとは明確に一線を画したもので、壁を1つ、飛び越えた感じだ。まず、アルバム1曲目から驚かされる。リズムやパーカッションの音色はどことなくアフリカっぽいのだが、そこに西欧のクラシカルな小編成の弦楽器が絡んできて、国籍不明の異次元に連れて行かれる。非常に気持ちのよい仕上がりで、アルバムの始まりとして上々だ。

 不思議なサウンドに引き込まれているうちに、フランス語歌詞の歌曲が登場する。これは、ビゼーの歌劇「真珠採り」の中に楽曲だそうだ。このアルバムにはもう1曲、イタリア語で歌われるヴェルディの歌劇「椿姫」の小品も含まれており、こうしたクラシカルなアプローチがアルバム全体の幹をなしている。歌劇の曲とはいっても、過剰に歌い上げるでもなく、あくまでも抑揚をおさえた穏やかな歌声だ。ボサノバタッチの曲も間に挟まっていて、これら多彩な楽曲が、バーン節として1つにまとまっている。

 非欧米圏の、その土地固有の音楽を異国のエキゾチズムとして捉え、自らの音楽にエッセンスとして採り入れた、という表面的なものではなく、さまざまな異国の音楽を自分のなかで消化しきって、シャッフルして、自分のサウンドとして再構築した、と表現すれば良いだろうか。いろんな国々の音楽を想起させるのに、お里が知れないという摩訶不思議な魅力がある。新しい境地に達した作品なのだな、と実感できる。音楽で世界一周とまでは言えないが、半周したくらいの満足感だ。

 70年代の、若さに任せたようなロックがお好みの人間にとって、トーキング・ヘッズは、やけに余所余所しいサウンドに聞こえたものだ。僕もその一人で、トーキング・ヘッズやデイヴィッド・バーンに関心を持ったことは一度もない。今回、改めてヘッズやバーンの主要作品を遡って聴いてみたのだが、やはり心に刺さることはなかった。でも、この作品は違う。同じように彼らを避けてきた人にこそ、騙されたつもりで聴いてみてね、と言いたい。