COLUMN(あとがき)
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「ビート・オン・プラザ」と田中正美さんにありがとう。

 エフエム大阪(当時は大阪音楽エフエム放送)という民放FM局が本放送を開始したのは1970年(昭和45年)4月のことだ。それまで関西ではNHK-FMの大阪放送局しかなかったので、関西方面で最初の民放FM局ということになる。このFM局で開局と同時に始まった番組に「ビート・オン・プラザ」(平日18時00分〜18時55分)があった。DJは初代が矢沢二郎(川村尚、後の川村龍一)さんで、2代目は松平維秋さん、そして3代目が田中正美さんだった。僕がヘビーリスナーになったのは、田中正美さんの時代からである。

 この番組には、特別な思い入れがある。それは、洋楽ロックを中心に、毎日、話題の最新アルバムを頭から終わりまで、基本的にはノーカットで放送してくれる番組だったからだ。もちろん、間にCMは挟まるが、音楽とDJの声が重なることはほとんどなく、CMカットさえ巧くできれば、LPをまるまる録音(エアチェック)できてしまう番組だった。当時はNHKのFMでも、アルバムを全曲ノーカットで放送することが珍しくなかった。片面ずつを午前と午後、あるいは今週と来週に分けてオンエアすることもあった。

 今では考えられないことだが、このような番組が成立する背景には、アルバムをノーカットで放送しても、レコードの売上にはそれほど影響を与えない現実があった。何より、FM受信機の普及率がまだ3割程度しかなく(NHK調べ、1970年当時)、電波の出力が弱くて専用アンテナなしでは雑音も多かった。録音機の性能はそれほど高くなく、また高級機を所有している人も少なかった。カセットテープレコーダーはまだ出始めで、音質は酷く、音楽録音にはとても適さないほどのレベルだった。

 まともな音質で聴くにはオープンリールのテープデッキが必要だったが、そこそこの機械でも軽く10万円はした。テープは安いモノでも1巻1000円以上し、これに片面で47分くらいしか録音できない。要するに、アルバム全曲をコピーするにも相当なお金がかかるので、レコードのセールスに影響を与えるようなことは、ほとんどなかったのである。カセットの音質がよくなり、テープも機械も安くなってからは、全曲オンエアの番組が姿を消した。

 当時、僕は小遣いのほとんどを……大学生になってからはアルバイトで得た収入のほとんどを、音楽に費やしていた。なかでもオープンリールテープには惜しげもなくお金を使った。大学の生協ではテープが市価よりも安い800円くらいで売っていて、財布にお金があれば、あるだけのテープを買った。そして溜まりに溜まったテープの数は、ピーク時で300本近かったと思う。

 その多くが、「ビート・オン・プラザ」でエアチェックしたアルバムだった。番組のタイトル曲は、ポール・マッカートニーのソロ第1作目に収録されている「ママ・ミス・アメリカ(Momma Miss America)」。この曲が軽快に流れてくると、僕はまるでパブロフの犬のような条件反射で、ドキドキ・ワクワクしたものだった。 「こんばんは。田中正美です」と挨拶もそこそこに、その日に紹介するアーティストやアルバムの説明が簡潔になされ、これから放送する曲名が告げられる。エアチェックする人を多分に意識していたのだと思うが、録音の切っ掛けを知らせるようなコメントが流れ、さっと曲が流れた。録音に失敗することはほとんどなかった。オープンリールデッキの操作を誤った時以外は。

 「ビート・オン・プラザ」で放送するアルバムの選択について、田中正美さん自身がどの程度イニシアチブをとっていたのかは、よくわからない。ただ、時々、少々毛色の変わったアルバムを意図的に放送していた印象は強い。「他の番組では無視するかも知れないが、僕はこのアルバムを聴いて欲しいんだ」という田中正美さんの意志を、僕はかぎ取っていた。田中正美さんの選択眼を信じて、今イチ好きになれなかったアーティスト、全然知らないアーティスト、洋楽ロックの本流からはずれるジャンルのアルバムも、聴かせてもらった。そうやって、音楽の好みを幅広くしてもらえたのだ。せっせとリクエストハガキを出し、名前を呼ばれたことも何度かあったと思う。

 当時、田中正美さんはライナーノーツを書いたこともあったと思うが、音楽専門誌などで頻繁に音楽評論をする方ではなかった。いつの間にか「ビート・オン・プラザ」は番組が終了し、田中正美さんの声も聴かなくなってしまった。田中正美さんがDJを本職にしていた方なのか、音楽評論家だったのか、あるいはエフエム大阪の専属スタッフだったのか、未だにその謎は解明できていない。あまりにも名前を聞かないので、正直、お亡くなりになったのかと本気で心配もした。だが、とあるブログで田中正美さんが今も若々しくご活躍だと、つい最近知った。今は若手アーティストの発掘や育成に努めておられる様子。お元気とわかって嬉しい限りだ。

 今こうして、音楽を愛おしく思いながら毎日を送れるのも、音楽を書き物にできるのも、「ビート・オン・プラザ」のおかげと言っても過言ではない。学校生活も私生活も暗くツマラナイことばかりだったが、明日もこの番組があると思うと、生き続けていこうと思えた。本当にそうなんである。だから、いつか、「ありがとう」を言いたかった。この「隠れ名盤 世界遺産」も、お礼返しの一つだと思っている。

追記(9月15日)

本文中で、「ビート・オン・プラザ」のテーマ曲についてふれたが、久々にスタッフ(フュージョンバンドのstuff)のアルバムを聴いていて、思い出した。77年後半か78年以降は、テーマ曲がスタッフの「As(アズ)」という曲に変わっているハズ。アルバム「モア・スタッフ」(77年作品)に収録されている佳曲だった。


※参考文献/『民間放送50年史』(社団法人日本民間放送連盟)

 
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