File No.23
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イヤー・オブ・ザ・キャット
アル・スチュワート

YEAR OF THE CAT(AL STEWART)
1976年作品

「イヤー・オブ・ザ・キャット」ジャケ写

 

独特のメロウ・ボーカルと珠玉の楽曲は魅力満載。
この名盤が在庫切れだなんて、ああ、腹立たしい。

 ショックである。アル・スチュワート(スチュアートと表記される場合もある)の代表作であり、AORの名盤とも伝えられる「イヤー・オブ・ザ・キャット」の国内盤が在庫切れとは、本当にショックである。書籍で言えば、夏目漱石の「坊ちゃん」の文庫本が入手不可能な状態になっているようなもの、ではないか(少々大げさではあるけれど)

 日本語で書かれた手元資料は少ないが、彼のことをご存じない人のために、少しばかりバイオグラフィーを紐解いてみよう。1945年にグラスゴー(スコットランド)の名家に生まれたアルが、音楽に目覚め、学校を中退してミュージシャンを志し始めたのは17歳の頃である。ロンドンに単身“上京”してギターの腕前を磨き、さまざまなアマチュアバンドを渡り歩いた後、66年にシングル盤でデビューの機会を得て、翌67年にはアルバムデビューを果たした。

 初めて脚光を浴びたのは、私小説的な恋愛告白をしたためたような2ndアルバム「ラヴ・クロニクルズ」で、この作品はイギリスの音楽誌(MM誌)で年間ベストフォーク賞を受賞。愁いを帯びたナイーヴな詩とメロディ、そして鼻にかかったようなメロウな歌声は国内で着実にファンを集め、続く3rdアルバムはイギリスのアルバムチャートに初登場(最高位40位)、さらに4thアルバム「オレンジ」は、フォーク路線時代のアル・スチュワートの最高傑作とも評価されている。

 ブリティッシュ・トラッド・フォークの一人とも言われるアルだが、もともとはポール・サイモンやボブ・ディランの影響を受けた部分があり、アメリカでの成功を夢見てもいたのであろう、74年発表の5th「過去、現在、未来」でようやくデビューのチャンスを掴んだ。ただ、すでに人気を得ていたイギリスとは勝手が違う部分があり、当初はなかなか知名度を得ることができなかったようである。

 そんな彼がアメリカ市場で大ブレイクするキッカケを作り出したのが、プロデューサーのアラン・パーソンズである。アランは元々アビーロードスタジオのエンジニアとしてキャリアをスタートさせた人で、ビートルズの「アビーロード」やピンク・フロイドの「原子心母」、そして名作の誉れ高い「狂気」でエンジニアを務めたほか、75年以降はプロデューサーとしても活動を開始していた。

 アル・スチュワートとアラン・パーソンズのコンビワークは、すでに75年作の6thアルバム「Modern Times(邦題:追憶の館)」から始まっており、フォーク路線から軽快なポップス路線へと緩やかに移行、全米アルバムチャートで最高位30位につけるなど、新路線が成功の道筋を示し始めた。この路線転換をますます鮮明にしたのが76年作の7thアルバム「イヤー・オブ・ザ・キャット」である。

 この作品では、従来通りのスパニッシュな雰囲気のアコースティック・ギターの音色を残しつつも、キーボードやサックス、ストリングスなどを効果的に採り入れることで非常に洗練されたゴージャスなムードを醸し出し、全般的にゆったりとしたテンポに抑えるとともに、ビート感のある曲でもエッジを効かせることなく、まろやかに仕上げることで、大人の鑑賞に耐える上質感のある作品に磨き上げた。

 こうしたサウンド面の個性は、たぶん、76年という時代にとってもフィットしたのだと思う。イギリスで巻き起こっていたパンクムーブメントに眉をしかめ、ディスコサウンドの洪水を嫌い、泥臭さや土臭ささを敬遠し始めた大人たちにとって、「イヤー・オブ・ザ・キャット」は極上の気分を味わわせてくれるマスターピースとなった。ちょうど、ボズ・スキャッグスが「シルク・ディグリーズ」を、イーグルスがカントリー臭を抑えた「ホテル・カリフォルニア」を発表し、メッセージ性の強いブラスロックバンドだったシカゴがラブバラードに傾倒し始める時期とも重なっている。

 「イヤー・オブ・ザ・キャット」は翌77年にかけて、ゆったりとしたペースでヒットを続け、同年にはアルバムチャートで最高位5位まで上昇、同名のシングルはシングルチャートで8位につけた。同等の路線で発表された78年作の8thアルバム「タイム・パッセージ」もアルバム最高位10位につけ、同名シングルは7位を記録。この時期には、日本で言うAORに相当するアダルトコンテンポラリー部門のチャートが新設されていたようで、同部門ではシングル1位につけた。

 こうして「イヤー・オブ・ザ・キャット」と、これに続く「タイム・パッセージ」はアル・スチュワートにとって、代表的な2大ヒットアルバム(シングル)となったわけだが、本国・イギリスでは対照的に冷ややかな反応で、アルバムチャートでは40位前後どまりであった。アメリカ西海岸を思わせる、ほのぼのとした明るさがイギリス人の好みとは異なっていたのか、あるいは、アメリカ人好みの曲調に路線転換したアルへの抵抗感もあったのかもしれない。

 アル・スチュワートにとって、商業的な成功という意味では70年代後半が最大のピークであったろうと思う。ただ、今にして思えば、自分にはしっくり来ない借り物のサウンドに思えたのだろうか、あるいはAOR(アダルト・コンテポラリー)全盛の時代に嫌気が差し始めたのだろうか、それともプロデューサーのアラン・パーソンズが自らのバンド活動(アラン・パーソンズ・プロジェクト)に専念していったからだろうか……80年発表の9thアルバム「24キャロッツ」からはアランとのコンビを解消し、AOR路線に背を向けた。

 とくに2枚組のライブ盤「Live Indian Summer(邦題は失念)」のリリース後は、これまでの経歴をいったんリセットするかのようにアコースティックなサウンドに立ち戻ったり、もともと関心が深かった歴史的なエピソードを歌詞にしたためる独自の手法で個性を発揮するようになる。そして、90年代には日本盤の新譜がリリースされなくなって今日に至っている。

 個人的にはアル・スチュワートのフォロワーをその後も続けており、スタジオ盤では16作目(たぶん)にあたる08年作の「Sparks of Ancient Light」や、09年にリリースされたライブ盤「Uncorked」も輸入盤でチェックしてきた。最近ではどんどんアコースティックな路線に戻ってきており、とくに後者のライブでは原点回帰のようなシンプルな仕上がりだ。

 彼の音楽人生を振り返ってみると、「イヤー・オブ・ザ・キャット」でブレイクした時代=AOR時代は、結果的に、非常に特異な時代だったのだなあと、つくづく思う。日本ではシングル「イヤー・オブ・ザ・キャット」が時折、FMでオンエアされて嬉しく思っていたが、近年はパッタリと聴かれなくなってしまい、存在すらも消えたかのようだ。そして、1991年に国内盤CDがリリースされたあと、「イヤー・オブ・ザ・キャット」は廃盤のままである。

 一部では、ジミー・ペイジが参加したという理由で2nd「ラブ・クロニクルズ」が、リック・ウェイクマンが参加したという理由で4th「オレンジ」がコレクションされる動きもあるようだが、アル・スチュワートの永年のファンにとっては、どーでもいい話である。AOR時代も遠くなった今、AOR時代の扉を開いた名盤が再リリースされる気配はまったくない。もう20年近く、放ったらかしになっているのだから、今さらブーム再来など到底期待はできないだろう。そこで、「イヤー・オブ・ザ・キャット」の輝きを後生に語り継ぐべく、「隠れ名盤 世界遺産」に登録することにした。

今でも鑑賞に耐える ★★★★★
歴史的な価値がある ★★★★
レアな貴重盤(入手が困難) ★★★

●この作品を手に入れるには……輸入盤(中古盤含む)ならCDは手に入りやすいだろう。またiTune Storeでも販売中。日本盤CDは中古品が高値となっており、アナログ盤ならオークションサイトで廉価で入手できる可能性が高い。



アル・スチュワートについて、さらに情報収集するには

●公式サイト
http://www.alstewart.com/

●MySpace
http://www.myspace.com/officialalstewart

●日本人のファンサイト
http://alstewartsroom.2.pro.tok2.com/

 
【世界遺産登録 10年08月24日】
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