File No.15
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ライヴ・アット・ジ・オペラ・ハウス
(ポインター・シスターズ)

LIVE AT THE OPERA HOUSE(THE POINTER SISTERS)
1975年作品

「ライヴ・アット・ジ・オペラ・ハウス」ジャケ写

 

黒人女性ヴォーカルグループの金字塔的な作品。
ソウルの枠組みだけでは捉えきれない絶品ライヴ

 ポインター・シスターズを何と形容したらいいのか、ずっと言葉を探していて、未だに適した表現が見つからない。

 80年代のシングルヒットを知る人にとっては、ディスコやファンク系のアーティスト、あるいは都会的なスムーズソウルのグループという印象があるだろうし、デビュー当時を知る人ならスィングジャズ風のコーラスグループ、あるいはR&Bグループというイメージも強かろう。その一方で、日本人にはなじみが薄いカントリーソングも得意だったりするから、なおさら表現が悩ましい。

 結局たどりついのは、非常におざなりではあるが、「強いて言えば、エンターテイメント・ボーカル・グループ、とでも表現するしかない」というものだった。かの音楽評論家・中村とうよう氏は、日本でのデビューアルバムで「ボードビル・ミュージック」と表現していた。大衆的なショービジネス・ミュージックとでも言い換えることができようか。

 エンターテイナーとしてのポインター・シスターズの真髄を最も適切に伝えてくれるのが、今回紹介する「ライヴ・アット・ジ・オペラ・ハウス」という作品だ。スィングジャズもブルースも、そしてジャズのルーツの1つとされるチャールストン風のダンス音楽も、カントリーソングやアメリカン・オールド・ポップスまでもポインター・シスターズ風の味付けで料理してしまう、ショービズ界のエンターテイナーぶりが臨場感をもって刻まれている、名盤中の名盤だ。

 このアルバムは、74年の4月、彼女たちの地元に近いサンフランシスコのオペラ・ハウスで録音されたライブ盤である。あっという間に有名になった彼女たちを温かく迎える凱旋公演といった趣もあったらしく、ステージ上にはフルオーケストラが用意された。ハリウッドでの著名スター公演を思わせるようなゴージャズな前奏(これがまた、いいのだ)が会場を十分に温め、期待感がいや増したころに彼女たちが登場。代表曲の1つ「ソルト・ピーナッツ」になだれ込むと、会場は一気に興奮の頂点に登り詰める。

 これを初めて聴いたときの、鳥肌がたつような思いは、未だによく覚えている。何が凄いかと言って、音源を聴いているだけで、ステージ上の彼女たちの動きや観客の反応が、ビシビシ伝わってくるからだ。前奏の最後で、いよいよ彼女たちが舞台の袖から現れたときの登場の仕方(手を振ったり、投げキッスをしたり)も目に浮かんでくるし、ステージ狭しと踊っている様や、もう楽しくて仕方がないような1人1人の表情までもが、リアルに想像できてしまう。ロックの名盤ライブも数々聴いてきたが、ステージでの動きが瞼にありありと投影された作品は、そうそうあるものではない。

 ここでプロフィールを紹介しておこう。彼女たちはルース、アニタ、ポニー、ジューンのポインター4姉妹で、サンフランシスコから橋を渡った東側の街・オークランドの貧民街で生まれた。牧師の父親は厳格な男で、映画もダンスもラジオを聴くことも禁じ、彼女たちにとっての音楽は賛美歌だけだったという。それでも、賛美歌を自分らなりの解釈で歌唱するなど、生まれながらの才能を覗かせていた。

 やがて音楽の道を志し、後に彼女たちのプロデューサーとなるデビッド・ルビンソン(最近はハービー・ハンコックや矢野顕子とも仕事をしているようだ)と出会って、教会音楽以外の音楽とも接していくわけだが、当初はさまざまなアーティストのバックコーラスを務めた。先ごろ紙ジャケで再発された伝説的なブルーアイド・ソウルバンド、コールドブラッドが71年にリリースしたアルバム「シシファス」に参加したのが初仕事で、デイブ・メイスンやボズ・スキャッグスのバックも務めたようだ。

 この間、71年にアトランティックレーベルからシングル2枚をリリースしたものの凡庸なR&B作品だったらしく、話題になることはなかった。彼女たちの才能に目を付けたのは、フュージョンバンドのクルセイダーズらが活躍していたブルーサムレーベルである。同レーベルから73年に1stアルバム「The Pointer Sisters」をリリースしたところ、玄人筋を中心にたちまち評判となり、シングルカットされた「イエス・ウィ・キャン・キャン」がビルボードで11位を記録。一躍スターダムにのし上がったのである。翌74年リリースの2ndアルバム「ザッツ・ア・プレンティ」もヒットし、こうした話題沸騰のなかで3rdアルバム「ライヴ・アット・ジ・オペラ・ハウス」(75年発売)のライブテイクが録音されたのである。

 日本では、地味なジャズ系新人コーラスグループと受け止められたのか、ブルーサムとの契約に時間がかかったのか、1stアルバムはすぐには発売されず、2ndアルバムが初めてのリリースとなった。耳の早い音楽ファンが待ちきれずに輸入盤で入手していたとも伝えられる1stアルバムは、間もなく日本でも発売されたが、当時のタイトルは「ポインター・シスターズ」ではなく「イエス・ウィ・キャン・キャン」だった。全米でヒットしていたシングルヒットの曲名を、アルバムタイトルの邦題に使ったのだろう。

 日本での初リリースとなった2ndアルバム「ザッツ・ア・プレンティ」のライナーノーツでは、辛口で知られる中村とうよう氏が珍しく絶賛調で彼女たちを紹介している。曰く、「ポインター・シスターズが評判になる原因を分析するのはナンセンスだ。要するに、これは大スターの誕生なのである」といった文脈だ。これだけでも、当時の衝撃ぶりがよく分かる。

 あれから35年を経た今なら、原因を分析するのも許されようか。彼女たちが絶賛のうちに迎え入れられたのは、おそらく、ノスタルジックなムードが漂っていたからだろう、と思う。

 ポインター・シスターズが登場した73年のアメリカは、今では想像できないほどボロボロになっていた時期だ。ベトナム戦争は失敗だったという認識が定着しており、前年にはウォーターゲート事件も発覚している。日本が経済大国になっていく一方で、アメリカの産業は大きな打撃を受けていた。追い打ちをかけるように、73年終わりにはオイルショックが起きている。「弱いアメリカ」が印象づけられた当時は、バブル崩壊のころに懐かしモノが流行った日本と同じ構図である。「古き良きアメリカ」に思いを馳せたくなるような“気分”は、十分に充満していたことだろう。

 ポインター・シスターズ自身が、「ノスタルジー路線なら売れるかも」と考えたとは、思えない。彼女たちはたまたま、永年の貧困生活時代からの習慣だろうか、昔よく流行っていたような古着ドレスを好んで着ていたという。おまけに、教会音楽しか知らなかった彼女たちが、デビッドから聴くように薦められたのがアメリカンオールドポップスや往年のジャズナンバーである。ノスタルジックなファッションでステージに立ち、往年の名曲を斬新なコーラスワークで披露したポインター・シスターズは、受けるべくして受けたのだろう、と今思う。同じ時期には、ベット・ミドラーもオールドポップス風の「ブギ・ウギ・ビューグル・ボーイ」(73年)で大ヒットを当てている。

 アメリカ人にとってのノスタルジーと日本人にとってのノスタルジーは感覚が異なるが、ポインター・シスターズがある種の郷愁を誘う音楽だということは、僕にも理解できた。物心ついた時から、両親と川の字になって寝る布団の側にはラジオがあり、ちょうど寝る時間にはラジオ関西のリクエスト番組だったろうか、いつも往年のアメリカンポップスが流れていた。洋楽好きは、たぶん、この時に刷り込まれたのだろうと思うが、そんな個人的な体験はともかく、ポインター・シスターズの虜になった当時の気分は、とても共感できる気がする。

 ただ、いつまでもノスタルジック路線が続くはずもなく、77〜78年には転機が訪れた。4人姉妹のうち、いの一番に音楽の世界に身を投じていたアニタが独立して3人組となり、レコード会社もブルーサムからプラネットへ移籍。ここで彼女たちの超絶テクニックを持ったコーラスワークとロックやディスコの融合が試され、音楽性は大きく転換していく。

 冷静に彼女たちのバイオグラフィを辿ってみれば、このプラネット時代がいちばんの黄金期だった。とくに78年から84年までの7年間は、全米トップ10入りのシングルが7曲も誕生。うち4曲が収録された83年発表のアルバム「ブレイク・アウト」は代表作として定評がある。

 90年代には一時期、モータウンに籍を置いた時代もあったようだが、これ以降はアトランタ五輪でパフォーマンスをした以外に目立った活動もなく、2006年には末娘のジューンが癌で他界。オリジナルメンバーの勇姿は拝むことができなくなってしまった。今もポインター・シスターズ名義のグループは3人でコンサート活動を続けているが、このうちオリジナルメンバーは、ソロ活動から復帰したアニタ、そしてルースの2人で、もう1人はルースの娘、イッサが加入している。オリジナルメンバーのもう1人、ボニーは姉妹とは距離を置いているようだ。

 複数レーベルに音源を残し、それぞれのレーベルで異なった音楽性を発揮したことが災いしているのか、20年間以上にわたって音楽界に大きな功績を残したにもかかわらず、レーベルを超えて各年代をくまなく網羅したベスト盤は出ていないし、とくにブルーサム時代のCDは多くが品切れ気味だ。今回、この記事を書くにあたって、彼女たちのアルバムを何とか大半入手して聞き込んだが、やはりブルーサム時代の初期の作品は突出してレベルが高く、しかも際立った個性が刻まれているように思う。

 なかでも「ライヴ・アット・ジ・オペラ・ハウス」は70年代のブラックミュージックを語る上で、欠かすことのできない名盤であるにもかかわらず、国内版CDはついに品切れになり、iTunes Storeでもラインアップは発見できなかった。ロックの名盤が、未発表音源の追加やら紙ジャケ化やらで何度もリリースされるのに、同作品は01年にCD化されたのが初めてで、少なくとも国内ではそのままの状態が続いている。そこでこれを隠れ名盤 世界遺産に登録し、とこしえに語り継ぐ必要性を、世に訴えかけるものである。

 ちなみに、国内版CDのライナーノーツで熊谷美広氏も書いていることだが、アナログ盤では2枚目のB面にあたる部分、「イエス・ウィ・キャン・キャン」から「ラヴ・イン・ゼム・ゼア・ヒルズ」に移り、一気にエンディングに向かう16分間は圧巻である。R&B系の歌を目指そうとか、ゴスペルクワイヤをやりたいと思う人なら、一度この部分だけでも聴いて、頂点に立つアーティストのあまりの凄さに徹底的に打ちのめされてから、這い上がっていただきたいと願うばかりである。

今でも鑑賞に耐える ★★★★★
歴史的な価値がある ★★★★★
レアな貴重盤(入手が困難) ★★★

●この作品を手に入れるには……2001年に世界初のCD化がなされた国内版CDは品切れになり、中古は高騰気味。輸入盤CDなら何とか手に入るのではないか。アナログ盤でもよければ、時々オークションに出品されている。収録内容は同じだから輸入盤でもよかろう。



ポインター・シスターズについて、さらに情報収集するには

●公式サイト
http://www.thepointersistersfans.com/

●英語版Wikipedia(パーマネントリンク)
http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=The_Pointer_Sisters&oldid=188062211

 
【世界遺産登録 08年02月04日】
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