File No.14
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ウィ・ガット・バイ
(アル・ジャロウ)

WE GOT BY (AL JARREAU)
1975年作品

「ライヴ・アット・ジ・オペラ・ハウス」ジャケ写

 

新しいジャズボーカルのスタイルを提示したデビュー盤。
アル・ジャロウの旅はここから始まった。

 アル・ジャロウには、特別な思い入れがある。それは、初めてジャズ・ボーカルと向き合うきっかけを作ってくれたミュージシャンだからだ。

 日本で彼が紹介されたのは、76年も押し迫った頃ではなかったかと思う。アメリカではセカンドアルバムとなった「輝き」(原題/Glow)が日本でのデビューアルバムだった。ちょうどこの年は、ジョージ・ベンソンの「ブリージン」、マイケル・フランクスの「アート・オブ・ティー」なども売り出され、ポップな感覚を採り入れた耳なじみのいいジャズのような音楽、要するにクロスオーバー(後のフュージョン)というカテゴリーがにわかに脚光を浴び始めた時期にあたる。クロスオーバーはジャジーなムードを漂わせたAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)などと重なり合いながら、70年代後期の“大人向け洋楽”市場を形成し、やがて83年連載開始のコミック「ハートカクテル」の世界観へと系譜が受け継がれていく。

 「輝き」など一連のクロスオーバーが登場する以前の時代のジャズは、洋楽ヒットシングルで育った僕のような立場からは、非常に敷居の高い存在だった。マイルス・デイヴィスもジョン・コルトレーンもオスカー・ピーターソンもMJQも凄いミュージシャンであることは十分に理解していたつもりだったものの、あまりにも微動だにしない評価が確立していて、おいそれと初心者が首をつっこめない雰囲気がしていた。未成年の分際でありながら、涼しい表情を装って紫煙たれ込めるジャズ喫茶などに出入りしたことも多々あったが、今ひとつ場違いなところに来たような感じがして、お尻がむずがゆく、ソファでじっと聴き入ることに1時間も耐えられなかったような覚えがある。

 もちろん、チック・コリアの「リターン・トゥ・フォーエヴァー」(72年作)とかウェザー・リポートの「スウィート・ナイター」(73年作)など、76年以前にもクロスオーバーの走りとなる名盤はあり、これらもけっこう聞き込んではいたが、「こういう音楽が新しいんだ」「こういう音楽を好きになることが大人なんだ」と自分に言い聞かせるように、かなり背伸びをしていた部分が少なからずあった。要するに、ハート(感性)よりも、脳みそ(理性)で感じていた部分が多かったのだ。そのせいか、最近になって両アルバムを久々に聴いてみたが、あんまりワクワクしてこなかった。

 その点、アル・ジャロウ「輝き」やジョージ・ベンソン「ブリージン」、マイケル・フランクス「アート・オブ・ティー」などは、初めて聴いたときにビビビと電流が走るような感覚があった。これまでのジャズのイメージとは違う都会的で洗練された感じが非常に刺激的で、いわゆる洋楽ポップスよりも深みがあり、閉鎖的な気持ちを開放してくれるような感じ、そっと頬をなでていく微風のような心地よさもあった。

 なかでもアル・ジャロウは、スキャット唱法とでも言えばいいのだろうか、何よりもそのボーカルスタイルに大きな特徴があった。エルトン・ジョンの「ユア・ソング」など、どこかで聴いたことがあるような楽曲も、アル・ジャロウの歌声でたちまち新しい生命を宿した。それはまるで、魔法にかけられたような感覚だった。

 ただ皮肉なことに、ボーカルスタイルの奇異性ゆえに、飽きられるのも比較的早かった気がする。80年代に入ると徐々に存在感が薄まっていき、苦肉の策だったのかディスコスタイルを採り入れた作品まで発表し、徐々にファンは見放していった。アル・ジャロウにとっても、時代の流行とどのように折り合いをつけていったらいいのか、苦悩の時期だったのかもしれない。

 幸いなことに90年代あたりからアル・ジャロウも自分の立ち位置をしっかり見定めたようで、期待を裏切らないメロウな佳作をマイペースでリリースしている。最近ではジョージ・ベンソンとの共作アルバム「ギヴィン・イット・アップ」(06年作)を発表し、互いのお得意ナンバーでコラボするなど、楽しみながら音楽活動を続けているようだ。

 そんなアル・ジャロウを改めて評価すべく、2年ほど前から彼の作品を聴き直し始めたのだが、グラミー賞を5回も獲得している実力派でありながら、国内盤のオリジナルアルバムのいくつかが入手困難な状態に陥っていることがわかった。なかでもファンの間で高値を呼んでいるのは94年のライブ盤「テンダネス」だ。マーカス・ミラーがプロデューサーを買って出たアルバムで、ジョー・サンプル、スティーブ・ガッド、エリック・ゲイルといった旧スタッフ(Stuff)勢にデヴィッド・サンボーン、ニール・ラーセン、今は亡きマイケル・ブレッカーなど名うてのミュージシャンが参加した垂涎の作品だ。冒頭1曲目の「マシュ・ケ・ナダ」で、いきなり打ちのめされる。

 この「テンダネス」を隠れ名盤 世界遺産に推挙しようとも思っていたのだが、これ以上に品薄状態が無念でならない作品がある。アメリカでのメジャーデビューアルバム「We Got By」(75年作)だ。「輝き」(76年作)で衝撃を受けた僕は当時、どこで情報を得たのか、これが本国ではセカンドアルバムだと知り、輸入盤専門のレコード店を渡り歩いて、メジャーデビュー盤の「We Got By」をゲット。「輝き」よりもジャズ色が強く、すぐにはなじめなかったが、聴けば聴くほど味わい深いスルメ系の作品として永らく愛聴することができ、結果的には初期の作品では最も好きな作品となった。

 日本では「輝き」が76年に発売された後、やはり名盤の呼び声高い「ライヴ・イン・ヨーロッパ」(原題/Look To The Rainbow)が77年に、ポップ路線に傾いた「風のメルヘン」(原題/All Fly Home)が78年に発売され、その後、ようやく79年になって日本盤の「ウィ・ガット・バイ」が発売された。この間「僕だけが知っているアル・ジャロウの名盤」として、ちょっぴり自慢のアルバムでもあったわけだ。

 それはそうとして、アル・ジャロウの未聴だったアルバムなどを図書館で借り、輸入盤やオークションの中古盤などで手に入れて、ようやくオリジナルアルバムはすべてチェックを終えたのだが、一連のアルバム探しのなかで、唯一分からなかったのが「Ain't No Sunshine」というタイトルのアルバムである。

 彼の公式サイトにも、英語版Wikipediaにもディスコグラフィとしての表記がなく、どうも非公式にリリースされたアルバムらしいのだ。複数の国々から、それぞれ異なるジャケットで発売されており、曲目リストもさまざま。思い切ってドイツ盤を格安で購入したのだが、聴いてビックリした。何の説明も書かれてないので自分の耳と記憶だけを頼りにすれば、アル・グリーンやビル・ウィザースのカバーばかりなんである。しかもアレンジは原曲そのまんまのいただきで、アレンジが同じだけに演奏の拙さが際立つ。アル・ジャロウの歌声にしても、どことなく未完の若さが表れており、歌声の伸びもなければ、スキャット唱法もない。ただ原曲をなぞって歌っているだけ、に聴こえる。

 米国amazonによれば、この「Ain't No Sunshine」のオリジナルリリースは1983年とクレジットされていたが(92年再リリース)、どう考えてもおかしい。僕の勝手な想像だけで書いてしまえば、これは75年メジャーデビュー以前の無名時代に録音され、そのままお蔵入りになっていた音源ではなかろうか。だから公式なディスコグラフィにも登場していないのではないか。

 この仮説がもし正しいのなら、アル・ジャロウはあやうく亜流のR&Bシンガーに仕立て上げられる寸前だったのかもしれない。そう考えると、公式デビュー盤の「ウィ・ガット・バイ」で「自分のスタイルはコレだ」というものを打ち出したのは本当に大正解だったと思えてくるし、この作品がなおも愛おしく感じられるのだ。

 「ウィ・ガット・バイ」は新しいジャズボーカルのスタイルを自ら切りひらいた作品でありながら、日本ではLPの発売も遅れたし、92年にCD化されたまま品切れ状態で放置されている。そこで、この作品を「隠れ名盤 世界遺産」として登録することにしたのである。

今でも鑑賞に耐える ★★★★
歴史的な価値がある ★★★★
レアな貴重盤(入手が困難) ★★★

●この作品を手に入れるには……国内盤CDは92年にリリースされて品切れのまま。輸入盤CDでよければ、何とか手に入るだろう。オークションでは時おり出品されているが、アナログLPが多い印象。



アル・ジャロウについて、さらに情報収集するには

●公式サイト http://www.aljarreau.com/

●My Space http://www.myspace.com/2aljarreaucom

 
【世界遺産登録 07年12月27日】
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