File No.08
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ソールズベリー
(ユーライア・ヒープ)

SALISBURY(URIAH HEEP)
1971年作品

「ソールズベリー」ジャケ写

 

年数を経るに従って評価を下げてしまったB級バンド。
斬新なアプローチをした作品まで見捨てていいのかっ?

 戦後60年を経て戦中の記憶を語り継ぐ人が少なくなったように、デビュー以来35年を経てユーライア・ヒープを語り継ぐ人も少なくなってしまった。オシャレに華やいだ80年代ロックで青春時代を過ごしたであろう30代の人や、今どきのデスメタルやヘビーメタルを好んで聴く若人たちに至っては、「何それ?」的な存在だそうである。かつてロッキキッズたちが毎月の発売日を心待ちにしていた『MUSIC LIFE』誌の恒例企画、人気投票で最高14位(73年度)につけた人気バンドだというのに、もう誰もその話題を口にしない。かつてのファンでさえ、彼らが好きだったとカミングアウトするのが気恥ずかしいと言うのだから嘆かわしい。

 僕がユーライア・ヒープの存在を初めて知ったのは、多くの隠れファンがそうであるように、日本でのデビューシングル「対自核」(1972年)が最初である。日本コロムビアの洋楽担当がひねり出したであろう、アートロック風の意味不明なタイトル(原題は「Look At Yourself」)や、原題そのまんまのミラー状になったジャケットデザインは興味をそそるに十分で、疾走感あふれるサウンドとサビ部分のコーラスの美しさは絶品だった。

 この頃どんな洋楽が流行っていたのか、当時のヒットチャートを回顧するサイト(All Japan Pop 20)を見てみよう。この1972年3月のチャートによれば、ABBAの前身であるビヨルン&ベニーの「木枯らしの少女」や、最近TV-CFに使われてリバイバル人気を呼んでいるメッセンジャーズの「気になる女の子」が大ヒットしていた時期に、彼らは登場している。「対自核」の発売は3月10日だったが、未知の存在であったにもかかわらず3月20日放送の同番組で早くも35位と下位ながら初登場。5月29日には最高で8位まで上昇している。当時は、仕掛けられてチャート上位にいきなり登場するような時代ではなかったから、僕と同じように初めて耳にした瞬間「これはいい!」と飛びついた人が一部におり、その後ジワジワと人気が高まっていった様が見て取れる。

 今となっては誰も信じてくれないが、この時期、ユーライア・ヒープはレッドツェッペリン(以下LZ)、ディープ・パープル(以下DP)と並び称される「UK3大ハードロックグループ(当時はバンドと言わずグループと言うのが一般的だった)」の1つに数えられていた。その筆頭は、堂々たる地位に仁王立ちしていたLZであることは言うまでもないが、ハードロック転向後の第1弾「ブラックナイト」に続いて「ファイアボール」が流行り始めていたDPとユーライア・ヒープが期待の有望株と目されていたのである。

 ハードロック関連では、このほかクリームの系譜とも言えるマウンテンがあったが、彼らは解散説が流れており(実際に72年春に解散、73年夏に再結成)、そもそもアメリカのバンドである。ハードロックはUKロックの1ジャンルというニュアンスもあった。誰がこれらを3大グループと呼んだのか、今となっては出所が不明だが、僕はこのことをしっかりと記憶している。もう1つ、ユーライア・ヒープは「最も大音響のコンサートを行うグループ」という宣伝文句も流れていた。

 3大グループのなかで、ユーライア・ヒープはサウンド面でもしっかり個性を発揮していた。LZやDPが、どちらかといえばバシンバシン、ピシンピシン、と響く高音中心のサウンドだったのに比べ、ユーライア・ヒープはドスンドスン、ゴツンゴツンという低音中心のサウンド。これにファルセット多用の高音ハーモニーが融合し、「激しくも、美しくもあるサウンド」を形成していたのである。間もなく、ハードロックと差別化したヘビーロックというジャンルが生まれ、後にはヘビーメタルというジャンルも生まれたが、そのルーツにユーライア・ヒープがあったことは、今のメタルマニアにも、しっかり覚えていただきたいものだ。

 さて、シングル「対自核」と同じく72年3月、同タイトルのアルバム(71年作品)も日本で発売された。アルバム「対自核」は売れ行きも上々だったと思う。当時、レコード店で配られる「レコードマンスリー」という無料冊子を僕は毎月見ていたが、冒頭に掲載されていたLP盤の売上ベスト20だかベスト30だかに、「対自核」が15位か20位か、そのくらいの位置にはランクインしていたことを、これもハッキリ覚えている。

 「たかだか20位じゃねえか」などとバカにしてはいけない。このランクはLPの月間売上枚数をカウントしたもので、クラシックから歌謡曲まで、すべてのジャンルがごちゃまぜになっていた。例えば、1位にイ・ムジチ合奏団のクラシック曲「四季(ビバルディ)」が居座り、2位「レット・イット・ビー(ビートルズ)」、3位「タンゴ名曲集(アルフレッド・ハウゼ楽団)」、4位「瀬戸の花嫁(小柳ルミ子)」、5位「ゴッドファーザー(サントラ盤)」、6位「シバの女王(レイモン・ルフェーブル・オーケストラ)」、7位「フォークソング第2集(森山良子)」……みたいな、今では信じられないようなランキングの中に、新人UKハードロックの「対自核」が堂々と分け入っていたのだから、間違いなく大ヒットである。(くれぐれも、このランキングは、架空の順位なのでお間違えなく。架空だが、結構リアルだと思う)

 僕が冒頭から執拗に語っているのは、ユーライア・ヒープは当時の洋楽シーンのなかで、それなりに栄華を誇ったバンドだったんぞ、ということである。みんな、好きだったハズじゃなかったのか、ということである。なのに、みんな忘れたのかよ、このヤロー、なんである。

 いかん、いかん、少し冷静になろう……。「対自核」は日本でのデビューアルバムだが、本国では3rdアルバムである。「対自核」が前述のように大ヒットしたおかげで日本でも過去のアルバムが遡って発売されることになり、3カ月後の6月には今回取り上げる2ndアルバムの「ソールズベリー」(71年作品)、8月には新作の4thアルバム「悪魔と魔法使い」(72年作品)、9月には1stアルバムの「ユーライア・ヒープ・ファースト・アルバム(Very 'eavy Very 'umble)」(70年作品)、さらに12月には新作の5thアルバム「魔の饗宴」(72年作品)が発売となった。72年だけで一挙に5枚のアルバムが日本で発売されたことになる。怒濤のリリースである。

 4thアルバムからは、イエスのアルバムでもお馴染みの、ロジャー・ディーンのイラストがジャケットに使われ、「悪魔」がキーワードに使われるなどキャラ設定も確立していよいよメジャーな存在になっていく。そして日本での人気沸騰を受けて、いよいよ73年3月には来日公演を果たすのである。高校1年生の僕も大阪の厚生年金会館大ホールにかけつけ、前列から10列目くらいのど真ん中という好位置で彼らを間近に目撃した。1曲目は最新アルバムからの先行シングル「サンライズ」だった。興奮した。涙がちょちょ切れる思いだった。アッという間の終演だった。こっそり録音したカセットは、大音量ゆえにほとんど何が何だかわからない音になっていた。あのカセットテープは、どこへ消えたのだろう……。

 今から思えば、ユーライア・ヒープ人気のピークは、ここまでだった。まだ洋楽初心者で評価力のない僕にとっては大満足の来日公演だったが、音楽評論家たちは、こぞってコキ下した。武道館での初日の内容が思わしくなかったのかもしれない。アンコールでロックンロールメドレーを演奏したことを批判する評論家もいた。確かに内田裕也じゃないのだから、ロックンロールメドレーは不要だったかもしれない。彼らのサービス精神だとは思うのだが……。来日公演のセットリスト(上演曲目)と似通ったライブ盤の6thアルバム「ユーライア・ヒープ・ライヴ」が間もなくリリースされたが、来日公演の印象を引きずる形で、ロック雑誌での紹介のされ方は、もはや格下扱いになってしまったのである。

 この後、スタジオ録音のオリジナルアルバムは「スイート・フリーダム」(73年作品)、「夢幻劇 (Wonderworld)」(74年作品)と続いたが、せっかく定着したはずのジャケットデザインも悪魔路線も消滅し、サウンド面ではアメリカ市場を意識したような毒のない軽快な音になって、もうこの頃には、ユーライア・ヒープはB級バンドの烙印を押されていた。

 不幸な出来事も続いた。74年にはゲイリー・セイン(ベース)が感電事故に遭って後に死亡。76年にデビッド・バイロン(リードボーカル)がクビになり(85年に死亡)、80年にはサウンドの要だったケン・ヘンズレー(キーボード)が脱退。オリジナルメンバーはたった1人=ミック・ボックス(ギター)が残るだけとなった。70年代前半の栄華は見る影もなくなり、ずっと彼らの新作を買い続けてきた僕も、80年代初め頃にはついに見限ってしまった。後に輸入盤や中古盤などでアルバムはすべて入手したが、少なくとも一時期、彼らのことは忘れてしまったのである。

 彼らのバイオグラフィ情報は一旦置いておいて、そろそろ今回取り上げる「ソールズベリー」の話題に入っていきたい。この作品は、先にも触れたように本国では71年に発表された2ndアルバムである。実はこのアルバム、ユーライア・ヒープの全アルバムのなかでは非常に異色の作品で、とくにアルバムタイトル曲は16分を超える大作になっている。ヘビーロックを基調にしつつ、オーケストラやホーンセクションを大胆に採り入れた実験的な曲だ。

 古くはムーディー・ブルース、そしてフランク・ザッパ率いるマザーズやディープ・パープルも同等の試みをし、ピンク・フロイドはクラシックファンに「原始心母」を披露するなど、ロックとクラシックの垣根を超える実験が種々なされていたとはいえ、こうした先例的な挑戦をユーライア・ヒープも見せていたことは意外と知られていない。いわばプログレッシブ・ロックにも似たアプローチを見せている作品であり、彼らの数あるベストアルバムには決して収録されない作品である。

 このアルバムは日本でも2番目に発売されたアルバムとなったが、「対自核」で見られたヘビーな魅力、バラードの美しさに加えて、プログレ的な実験を見せたこのアルバムによって、ユーライア・ヒープの魅力は間口が広くなり、僕の中で「凄いバンド」として評価が定着した思い出深い作品である。今は亡きデビッド・バイロンのボーカルも冴え渡っている、不思議なことに、このアルバムに収められている作品を、彼らはほとんどライブで演奏していない。その意味でも、極めて貴重な作品であり、多くのロックファンにとっての、ユーライア・ヒープ像(=所詮はB級バンド)を覆すに十分なアーティスティックな出来映えとなっている。

 彼らの黄金期は前述のように極めて短期間(日本ではたったの1年!)で終わり、黄金期のアルバムは今でも多くがCD作品として入手できる(ただし輸入盤)。だが、異色の作品であることが災いしたのか、残念ながら「ソールズベリー」は入手が困難である。まっとうに考えれば「対自核」が最高傑作であり、実は95年発表の「シー・オブ・ライト」もユーライア・ヒープ復活を思わせる完成度なのだが、彼らのアーティスト性を際立たせる役割を持つ当アルバムがこのまま消えてしまうのは、古くからのファンとして無念でならない。そこで、「隠れ名盤 世界遺産」として登録することにしたのである。

 最後に、ユーライア・ヒープをかつて応援していた多くのロックファンに言いたい。彼らのことを決して忘れないでくれ。ユーライア・ヒープのファンだったと大声で叫んでくれ。そして、3度目の来日公演を呼びかけよう。2度目の来日公演=CLUB QUATTRO公演(91年、大阪)が最後の来日では、あまりに淋しすぎる。

今でも鑑賞に耐える ★★★★
歴史的な価値がある ★★★★
レアな貴重盤(入手が困難) ★★★★★

●この作品を手に入れるには……国内盤CDは在庫切れで、新たなプレス予定は無し。輸入盤でもUS盤UK盤ともに品切れ状態で、中古品は高値を呼んでいる。足繁く中古レコード店を探し回るか、オークションに期待するしかないだろう。

●07/12/27追記……06年6月21日に紙ジャケCDで再発売されたものの、再び新品は品切れ。
●09/02/04追記……09年3月4日に廉価版で再発売。
●10/08/24追記……10年10月20日に紙ジャケで再発売。



ユーライア・ヒープについて、さらに情報収集するには

●公式サイト http://www.uriah-heep.com/
彼らはずうっと現役でバンド活動を続けている。2001年のライブDVDでは、ケン・ヘンズレーがゲスト参加で復帰しているので、輸入盤をゲットしておきたい。

●日本人ファンによる充実のサイト http://www1.odn.ne.jp/~cam83420/
活動の足跡について膨大なデータベースが満載。主宰者の「たーさん」、頑張って!

 
【世界遺産登録 05年09月19日】
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