1980年の家族
 

 1980年は「イエスの方舟(はこぶね)」事件が世間の注目を集めました。年頃の若い女性ばかりをねらって「誘拐」したらしい……。教祖はいかにも怪しそうなチョビ髭をたくわえた中年男らしい……。世間様から神隠しのように姿を消し、奇怪な集団生活をしているらしい……。こうしたいくつかの「憶測」「伝聞」が二重三重に積み重なり、人々は「周囲に若い女性をはべらせたハーレム状態で、教祖がいかがわしいことをしているニセ宗教団体」といった妄想を膨らませていきました。

 「イエスの方舟」は、千石剛賢さん(2001年12月没)が主宰する、聖書研究を中心とする信仰グループで、1960年に「極東キリスト教会」として活動を開始、75年から「イエスの方舟」と改称しました。信者と生活を共にしながら聖書の教えを学びあう家族のような組織だったといわれています。75年の改称当時は東京都国分寺市のプレハブ住宅を拠点に活動していましたが、78年からは関西方面や信州方面を転々とし、79年には福岡周辺に活動拠点を移していました。

 この間、娘を「イエスの方舟」にさらわれたと考える家族の訴えが続き、79年末には「千石イエスよ、娘を返せ」という家族の手記が雑誌に掲載されて、いよいよ問題が表面化してきます。家族の訴えをもとに80年2月頃から「アンチ方舟」のキャンペーンを張ったのはサンケイ新聞。以後、テレビのワイドショーでも格好のネタになり、冒頭に挙げたような「妄想」が人々の間に広がっていったのです。

 警視庁も世論に動かされる形で重い腰をあげ、行方捜索に全力をあげます。7月には名誉毀損や暴力行為等処罰に関する法律違反などの容疑で逮捕状を用意し、全国に指名手配。間もなく信者の女性らが熱海の製本会社の寮で発見され、千石イエスこと千石剛賢さんは狭心症で入院し、「集団失踪事件」にいよいよピリオドが打たれたのでした。

 この製本会社の寮は、千石さんの単独インタビューを掲載した雑誌『サンデー毎日』が彼らのために借りたものでした。同誌で取材にあたっていたのは、「あのくさ こればい!」でも知られるジャーナリストの鳥越俊太郎さん。記事の中で千石さんは「私はイエスではない、おっちゃんと呼ばれている」「私は誰からも恨まれる筋合いはない、悩んできた人を拒まなかっただけだ」などと主張しました。実は「千石イエス」の名前も、マスコミ(家族)が勝手に作り上げた名前で、本人は一度も自分をイエスとは称していませんでした。

 やがて信者たちは家族に引き取られていきますが、多くは「イエスの方舟」への復帰を望み、やがて本人たちの意志で再び福岡に集まるようになります。彼女たちにとって、自宅よりも、「イエスの方舟」の方が、ずっと自分らしく生きられる場所であることを知っていたのでしょう。

 信者たちの多くは、家庭の中に問題を抱えていました。親からの必要以上の溺愛や過保護、期待に耐えられなかった女性、希薄な家族関係への不満を抱いていた女性が多かったと言われており、己の悩みをすんなり受け入れてくれた「おっちゃん」は、身を寄せるべき、頼りがいのある人物でした。現代の駆け込み寺、悩める乙女たちの自助グループとして、「イエスの方舟」は生まれるべくして生まれた集団でもあったわけです。

 千石さんは名誉棄損容疑で書類送検されましたが、結局は不起訴処分となり、「宗教への不当な捜査機関の介入」が問題として残されました。後にオウム真理教が問題視されたとき、警察の動きが鈍かったことに非難が集まりましたが、「イエスの方舟」強制捜査で受けたバッシングが、捜査介入を踏みとどまらせたと見ることもできます。

 当時、漢方薬局の主に過ぎなかった麻原彰晃こと松本智津夫が、この事件をどのように見、4年後の「オウム神仙の会」発足に至ったのか、知る由はありませんが、少なからずのヒントを得たのではないか、とも思えるのでした。

 
当原稿執筆/2003年1月17日
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