1980年のマグマ

 「3年B組金八先生」が大ヒットした1980年は、校内暴力が渦巻いた時代でした。それまでも生徒同士のリンチ事件などは珍しくなかったわけですが、この時代には男子生徒から女子生徒にも波及、上級生による下級生への陰湿な集団暴行などが相次いで報告されました。

 これ以上に特徴的だったのは、教師に対する暴行事件が一気に多発したことです。警察庁が調べた79年1月から11月までのデータによれば、校内暴力の発生件数は全国で1118件。このうち教師に対する暴行は218件で、78年に比べて41.2%の増加でした。一年後のこの年は、同じく11月までのデータで校内暴力は1210件。そのうち教師に対する暴行は307件で、増加率はやはり4割を超えています。

 ちなみに、「17歳の凶行」が話題となった平成12年のデータ(12ヶ月間)では、校内暴力の件数が994件、教師への暴力は582件でした。もっとも、警察で把握している件数というものは、警察サイドがどの分野に力を入れて活動するかによって大きくデータがぶれますから、一つの傾向くらいに読みとった方がいいのでしょう。

 1980年、主に矛先が向けられたのは、生活指導・生徒指導の教師たちでした。学校内での「問題行動」が注意され、丸坊主などの罰則を科された中高生たちが反旗をひるがえして、蹴りを入れたり殴ったりと、今日で言う「逆ギレ」で教師をボコボコにする事件が頻発したのです。卒業式の前後に「お礼奉公」と称して「お世話になった」教師に乱暴を働く事例はありましたが、これが年中行事になったのが大きな特色。こうした「事件」が高校よりも中学で多発したのも大きな特色でした。

 東京・多摩地方のとある市では、中学校の校長が地元警察に通報し、校内で逮捕者を出すに至りました。今となっては新聞沙汰にもならないニュースでしょうが、当時としては異例の処置。学校内での不始末を学校内だけで鎮圧できず、国家警察の力を借りた波紋は大きく、「問題行動」の生徒たちに手を焼いていた学校関係者の少なからずは、「都合のいい先例ができた」と思ったことでしょう。

 当時、生徒たちの怒りに火をつけたのは、主に校則に起因するものでした。時代錯誤で意味不明、不条理で合点のいかない校則も多々あった時代ですから、不満を感じる部分があっても無理はありません。複数の人間が集まる場所にはルールが必要ですし、未成年の子供たちに「しつけ」が必要なのは言うまでもありませんが、理にかなわないものを形だけそのまま押しつけようとしていた学校関係者たちにも責任の一端はあったのでしょう。生徒の暴力にあらがうために、空手やレスリングの心得がある体育会系教師がもてはやされたりもしました。

 校則批判の本が話題となるのは、もう少し後になりますが、その前兆ともいえる議論が朝日新聞紙上で盛り上がっています。それは「女子高生のパーマを認めるか否か」というもの。非行につながり、集団生活にもそぐわないからと禁止を徹底する学校側、ヘアスタイルを自由にして何が悪いのと反抗する生徒側の意見が両論併記され、話題になりました。九州の女子校の中には、美容室でパーマをかけたのではないことを証明する「天然パーマ確認証」まで発行していたそう。20年後の渋谷へ連れて行ったら、教師の多くは卒倒したことでしょう。

 学校の中だけで内なるマグマを抑えられなかった若者の中には、暴走族に走る者も少なくありませんでした。同年6月からは同乗者も免停処分にするなど取り締まりが強化されましたが、暴走族は減るどころか増える一方で、ここでは教師をボコボコにするように、パトカーや警察官を襲う事例まで生まれています。暴走族の年齢層は低年齢化していき、この時期には16〜17歳が中心になったそうです。

 二輪車や四輪車ではなく、踊りで発散した中高生もいました。前年から原宿あたりでは、リーゼントやポニーテールでおしゃれをした若者たちが、持参したラジカセでディスコサウンドやロックンロールを鳴らせながら路上で踊る光景が目立ち始めたのですが、当初は「青空ディスコ」と呼ばれ、間もなく、彼らに人気のブティックの名前に由来する「竹の子族」という名前がついています。

 一方、暴力沙汰や踊りでマグマを発散できず、いじめや学校不信などで登校拒否に陥る中高生も少なくありませんでした。そんな子供たちを持つ親たちは、右往左往し、対応に苦慮しています。4月16日付けの朝日新聞の家庭欄には「登校拒否 治療は試行錯誤」「『ヨット』や『キャンプ』も効果 」の見出しで、子供たちを「更生」させるための民間レベルの取り組みが紹介されています。このなかには戸塚ヨットスクールの事例も登場していて、今では刑務所の中の人となっている戸塚校長は当時、「開業医、教師、銀行員、公務員、一代で財をなした事業家の子が多い。どの親も教育熱心です」と語っていました。

 同年末には、一流企業の支店長を務める夫とその妻が、二浪中の息子に金属バットで惨殺される事件が起きました。頭のいい一家のなかで、引け目を感じていた犯人が、身に覚えのない窃盗の容疑をかけられて逆上し、凶行に及んだものでした。「子供が実の親をあやめる」事件は当時としては珍しく、戦後たどってきた受験戦争一辺倒教育のもろさを、人々に印象づけた事件でもありました。

 こんな1980年を振り返っていて思い出したのは、今はなきカリスマ歌手・尾崎豊さんです。彼の履歴をたどってみると、校内暴力激しいこの時代に中学時代を過ごしており、自らも問題児扱いされるなど「荒れる15歳」を地でいく、まさに当事者。友人が教師に丸坊主にされたことに反抗して家出をした、その経験が「校舎の窓を割り……」という、あの名曲の下地になっているといわれています。大人たちの生き方に疑問を抱き、自分の生き方に迷い、アイデンティティを探しあぐねていた思春期ならではのマグマを、彼は希有な才能で作品に仕上げました。

 個人的に非常に関心があるのは、1980年に荒れた中学生たちの世代は、10年後のバブル期には就職市場での「売り手市場」真っ盛りを経験した世代でもあるということ。フツーの大学レベルや学力レベルでは到底入れないような一流大手企業から豪華な「もてなし」を受け、手厚く迎え入れられるなど、この世の春を謳歌したわけですが、そんな同世代のバブル君たちを尾崎豊さんはどう見ていたのか。

 自分を厳しく見つめ、最期まで自分の生き方に迷いを感じ続けてきた尾崎豊さんから見れば、自分だけが置いてけぼりを食らったような気分だったのじゃないだろうか、とも思うのでした。

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当原稿執筆/2002年12月16日
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