1980年のガハハ
 

 毒舌を売り物にしたツービート、広島VS岡山をネタにテンポのいい漫才を見せたB&B、「そーなんですよ川崎さん」で人気に火がついたザ・ぼんち、不良ネタで若い観客を引きつけた島田紳助・松本竜介、「ホーホケキョ」の西川のりお・上方よしお、そしてベテランの域に入った西川きよし・横山やすし……。1980年は、漫才ブームを中心としたお笑い人気が一気に花開いた年でした。

 漫才ブームの起こりについて、各種の昭和史解説本では、1月に放映された「花王名人劇場」(フジテレビ)での漫才特集が始まりだった、とか、4月にシリーズ第一弾が始まる「THE MANZAI」(同)が契機となった、などと書かれています。間違いではないでしょうが、もう一つ、見落とされている番組があります。それは意外にも、テレビ東京の漫才特別番組でした。

 3月16日のゴールデンタイムに放映された「お笑い仕掛人総出演 第一回日本漫才大賞」には、やすし・きよし、セント・ルイス、てんや・わんや、ツービート、コメディNo.1などがそろって出演し、同時間帯の人気番組である「西遊記2」「オールスター家族対抗歌合戦」「西部警察」を破って高視聴率を記録したのです。もっとも、肝心の「日本漫才大賞」受賞者は一組もなしというお粗末企画だったようで、後日、テレビ欄には厳しい番組評が掲載されていたのですが

 これに続いたのは、3月23日夜9時から放映された「花王名人劇場」(フジテレビ)です。この日の企画は「漫才決定版」。レッツゴー三匹、内海桂子・好江、Wけんじ、そして同番組初登場のゆうとぴあなどが出演しました。4月1日にはいよいよ、後に続編が登場する「THE MANZAI」の一回目、「翔べ!笑いの黙示録 THE MANZAI」(同)がスペシャル番組として放映されます。出演者は、やすし・きよし、ツービート、ザ・ぼんち、セント・ルイス、B&Bなどでした。

 これらは、いずれも中堅・ベテラン勢が中心の構成で、番組改編期のスペシャル番組的な位置づけで放映されたものでした。4月の番組改編では、新たに「お笑いスター誕生」(日本テレビ)が始まります。こちらは若手お笑い芸人の登竜門となった番組で、ここから後のお笑い系バラエティ番組を構成するイキのいい若手がどんどん登場します。貴明&憲武(現とんねるず)を輩出したのもこの番組でした。

 同番組で初めての10週勝ち抜き(7月)を果たしたのは、すでに人気に火がついていたB&B。10月からは、平日正午の時間帯では珍しかったお笑い番組「笑ってる場合ですよ」(フジテレビ)の総合司会をつとめることになります。同番組にもアマチュアレベルの若手芸人さんが続々登場してきましたが、本当に笑っている場合だったのは、視聴者ではなく、初めてテレビに出演した若手芸人さんたちだったでしょう。

 「笑ってる場合ですよ」は1982年に終了し、長寿番組となっている「笑っていいとも!」(同)にバトンタッチしました。漫才コンビのバブル人気となったザ・ぼんちは、1981年に自慢のギャグ「そーなんですよ川崎さん」を引っさげてシングル盤「恋のぼんちシート」をヒットさせ、武道館公演まで果たしました。同81年には「オレたちひょうきん族」が始まり、お笑い人気は定着していきますが、漫才ブームはこの頃には下火になっていたのでした。

 さて、1980年に突如として降ってわいたように見える漫才ブーム(とお笑い人気)。その背景には何があったのでしょうか。

 一つには時代の必然があります。高度経済成長から低成長時代に移った当時の日本、人々はあくせく働くことに少々飽きてしまい、ある程度の経済的な余裕も生まれた結果、「お気楽な笑い」に「日々の糧」を求め始めたと解釈することができます。これが、いちばん教科書的な分析になると思うのですが、実は、もう一つ見逃せない事実があります。それは、吉本興業の東京進出です。

 正確な月日はわかりませんが、この年、吉本興業は「制作部東京連絡所」を開設。要するに、東京のキー局に番組制作を売り込み始めた年、と読みとることができるのですね。豊富なお笑いタレントを使った自社制作の番組を送り出し、番組の中で売れたタレントを他の番組に売り込みもする。1980年の最初の段階では、関西では吉本と双璧をなす松竹芸能の番組(藤山寛美さん主演もの)の方が、東京エリアでは目立っていました。漫才ブームを起こすことで、東京での吉本勢力は一気に拡大したのでしょう。

 これ以降、「関西では知名度抜群だけど、関東ではまだブレイクしていない芸人さん」の東京進出が目立っていきます。第一号は、明石家さんまさん。さんまさんは、1980年に関西ローカルのお菓子「ぼんち揚げ」の広告に出演していて、この撮影現場に僕もスタッフとして立ち会っていますが、当時は関西で人気のタレントさん、という印象でした。翌年始まる「オレたちひょうきん族」で明石家さんまさんは東京でも人気を得ていくわけですが、これなどは吉本東京進出のインパクトを示す格好の事例でしょう。数年後にはダウンタウン(松本人志・浜田雅功)が関西で脚光を浴び、やはり東京へ出ていきます。

 漫才ブームは、上方芸能の全国区化を促すと同時に、関西弁の全国区化をも促したとも言えます。そんなことを考えると、吉本興業の東京進出が大衆文化全般にもたらした影響には、計り知れないものがあったわけですね。これが漫才ブームのもう一つの側面でしょう。

●関連情報

子供たちは、やっぱりドリフターズ

 漫才ブームの一方で、ドリフターズの「8時だよ!全員集合」も手堅い人気を集めていました。前年に生まれたヒゲダンスや、この年に生まれた「カラスの勝手でしょ」が流行し、子供たちは漫才よりもカト・ケン(加藤茶・志村けん)に黄色い歓声をあげていました。同番組が終了するのは1985年。お笑いの潮流が「オレたちひょうきん族」に移ってしまう前の、最後のピークが1980年だったといえるかもしれません。

欽ちゃんは3本かけもちへ

 お茶の間で家族みんなが楽しめたお笑いには、萩本欽一さんの番組もありました。萩本欽一さんがレギュラー番組を多く抱えた時代は70年代後半から80年代はじめにかけてですが、この年は「欽ちゃんのどこまでやるの!」(テレビ朝日)に加えて、「欽ちゃんの“ちゃーんと考えてみてネ!!”」(日本テレビ)、「欽ちゃんの9時テレビ」(フジテレビ)がスタート。「欽ちゃんの9時テレビ」は視聴率が伸びませんでしたが、翌81年からは同じフジテレビで「欽ドン!良い子悪い子普通の子」が始まり、視聴率男の面目躍如たるところを示すのでした。

タモリさんはドラマに活路?

 三カ国語麻雀やハナモゲラ語などで脚光を浴びたタモリさんですが、この時期は自らの芸歴をどこに向かわせるのか、迷いの時期だったように見受けられます。前年に「うわさのチャンネル」が終了、永らく続いた深夜放送「オールナイト・ニッポン」のDJで固定ファンを獲得してはいたものの、その他に特筆できるレギュラー番組は「お笑いスター誕生」の審査員くらいで、この年はシリアスなドラマへの出演も目立っていました。「笑ってる場合ですよ」が終了して「笑っていいとも!」が始まるのは2年後の1982年。漫才ブームの衰退がなければ、今日のタモリさんはなかったのかもしれません。

 
当原稿執筆/2002年8月6日
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