1980年のドキドキ
 

 地震列島・日本で暮らしている以上、地震による被害を避けて通ることはできません。とくに関東周辺では、関東大震災(1923年、大正12年)以来、大地震からはしばらく遠ざかっていましたが、1980年には来そうで来ない大震災に戦々恐々としていました。

 契機となったのは、1978年6月に起こった宮城県沖地震でした。マグニチュード(以下、M)7.4、太平洋沿岸の各地で震度5を記録したこの大地震では、死者27人、重軽傷者1227人、全壊家屋651戸、半壊家屋5450戸という大きな被害が出ました。

 仙台などに大きな傷跡を残したこの地震は、都会型地震として多くの教訓を残しました。倒れたブロック塀で圧死した人が27人中14人もおり、コンクリートブロック塀見直しの機運が一気に高まったのも特徴です。翌79年には政府が東海地震に備えて地震防災対策を強化。この頃から「もしも東京周辺で地震が起きたら……」という不安がひたひたと押し寄せてくるわけです。

 1980年の新聞縮刷版を見ていくと、地震への備えに関する特集記事や断片的な記事、広告などがやたらと多く、歴史資料では行間に埋もれてしまった「地震不安」の根強さがうかがえます。春頃からは伊豆周辺で多発する火山性微動が伝えられるようになり、「根拠のない不安」は「根拠のある不安」に移っていきます。企業の中には、リスク回避のために工場を関西へ移す計画を練っていたところもありました。

 6/29には、実際、大きな地震が起きました。伊豆半島沖合を震源地とするM6.7の規模で、熱海に近い網代では震度5を記録。死亡者は出ませんでしたが、事ここに至って、「根拠のある不安」は「本物の不安」となりました。これに追い打ちをかけたのが8月中旬に静岡駅前の地下街で起きたガス爆発事故です。もしも地震が起きたら……もしも地下街でガス漏れが発生したら……。不安と不安の相乗効果で、人々はプチ・パニック状態だったといえるのかもしれません。

 実にタイミングがいいというか、悪いというか、8月末からは東宝映画「地震列島」が封切りになります。「日本沈没」(1973年封切)でひと山当てた東宝によるパニック映画第二弾で、お得意の特撮映像も盛り込まれました。この映画でラスト近くに登場するのは地下鉄での被害状況を想定したシーン。密閉された地下鉄構内に川の水が押し寄せるというシーンに、事前に脚本チェックまでしたはずの営団地下鉄は怒り、「科学的根拠のない模写だ」と抗議したのでした。

 こんなあんなの背景のなかで、9月1日には10都県が参加して、初めての大がかりな防災訓練が行われました。東名高速の交通を止め、一般道路の交通規制も加えた本格的なものでしたが、大半のドライバーは訓練を嫌って車の利用を控えたため、本当に訓練になったのかどうかは定かでありません。

 1980年に吹き荒れた「地震不安」は、幸いなことに、何事もないなかで薄らいでいきました。そんな関東方面での騒ぎを、涼しい顔で見ていたのは関西の人たち。「東京に住むと、いろいろ大変やねえ」と、まるで他人事だったわけで、実際、1990年に関西から東京へ転居した僕は、多くの人から「地震に気をつけてね」との助言をいただきました。まさかその関西が1995年に戦後最大の地震被害に見舞われるとは、地元の誰一人として予想できなかったことでしょう。

 今改めて当時の新聞を見ていると、一連の地震騒ぎは実に大げさで、滑稽にも見えてしまうわけですが、別の角度で見てみると、それだけ、「失うと困るモノが増えてきていた時代」だったのかなあとも思えるのでした。


▲電電公社の地震対策に関する広告

▲日本損害保険協会による「地震保険」の広告

 
当原稿執筆/2002年7月19日
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