1970年の夢見心地
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大都市間を結ぶ地上の高速交通網には、高速道路と新幹線があります。これらは、人や物資の移動を支え、経済活動を活発化させる大きな役割を担ってきました。 最初に建設が始まったのは高速道路で、1956年(S31)に設立された日本道路公団によって、まず名神高速道路の建設が進められ、1963年(S38)に初めての高速道路として尼崎〜栗東間が開通。続けて中央自動車道、東名高速道路の建設も進められ、1969年5月には東京から西宮まで540kmにわたる東名・名神高速道路の大動脈が開通しました。中央自動車道も9割以上が開通しており、1970年を迎えた時点では、とりあえず、東京・名古屋・大阪の三大都市が結ばれた状態でした。もちろん、首都高速道路や阪神高速道路も主要な路線は開通しています。 同年3月には第6次道路整備法5カ年計画がまとめられ、東北自動車道、北陸自動車道、中国自動車道、九州自動車道などの整備、本州四国連絡自動車道や東京湾岸道路の事業推進が盛り込まれました。また、地方の幹線道路を整備する道路公社の設立も促されました。高速道路や有料道路は、これからもどんどん広がるぞ、そんな青写真が国民に示されていたのが1970年です。 高速道路や有料道路はその後、実際に工事が進み、ここで列挙した路線はおおむね開通していますから、採算がとれているかどうかはともかく、ほぼ現実的な構想だったといえるかもしれません。一方、新幹線など高速鉄道網の整備構想は少しばかり浮わついたものでした。 新幹線は、1964年に開催される東京オリンピックに向けて、東海道区間の建設が急がれました。赤字の国鉄のなかでも数少ない黒字路線となりましたから、これを広げない手はない。国鉄の赤字削減の期待を背負いながら山陽新幹線の建設も進められ、1970年には新大阪〜岡山間の建設が佳境を迎えていました。さらに同年2月には岡山〜博多間の建設も着工し、5年後、1975年の開業がめざされました。ここは、例のトンネル内のコンクリート崩落事故が起きた区間で、ただでさえ工期が短いのに用地の取得もままならず、急速施工が余儀無くされたところです。東京から博多までを6時間40分で結ぶ東海道・山陽新幹線の開通で、当初は寝台列車を走らせる計画もありました。 さて、1970年には今後の新幹線整備計画について検討が進められました。このあたりからバブリーな臭いがプンプンしてくるのですが、当初3月、運輸大臣の諮問機関である鉄道建設審議会で決議された計画の要綱は、自民党案をそっくり呑んだもので、全国主要都市に9000kmの新幹線網を整備しようという壮大な計画でした。9000kmといってもピンと来ないでしょうから、参考までに現時点で営業中の新幹線の延長キロ数をお知らせすると、1953kmです。実に現在の4.5倍もの新幹線整備を構想していたわけですね。しかも完成目標は15年後の1985年でした。(下のDATA参照) さすがに財源が危ういというので、後に改められ、うやむやな法案で国会を通過したのですが、それでも同年11月には次の5線が優先順位の高い路線として示されました。 さらに、もう一つの構想もありました。それはリニアモーターカーです。当時の万博会場で模型のリニアモーターカーを見た人も多かったと思いますが、展示だけにはとどまらず、東京と大阪を1時間で結ぼうと1970年に国鉄が研究を開始。開業目標は何と10年後の1980年でした。 今から見れば、夢見がちな少年少女が「あれもしたい、これもしたい」と将来に夢をめぐらせているような印象さえありますが、当時は絵空事ではなく、大マジメにこれらのプランが議論されたわけです。うなぎのぼりの勢いで高度成長を謳歌してきた1970年の日本、まさか、翌年のドルショックで景気がつまづき、オイルショック(1973年)で冷や水を浴びせられるとは、誰にも想像できなかったのではないでしょうか。それほど、イケイケドンドンのムードが充満していた年だったんですね。 ●DATA--鉄道建設審議会が決議した「全国新幹線整備網」の要綱(完成目標は1985年)
1970年3月12日 朝日新聞より |
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