1970年の国際化
 

1970年を代表するできごとの一つは、大阪府吹田市に広がる千里丘陵で開かれた「日本万国博覧会(EXPO'70、通称・大阪万博)」でした。パリに本部をおく博覧会国際事務局(BIE)が認定したアジアでも初めての万国博覧会です。

日本での博覧会開催を呼びかけたのは大阪の経済界で、1963年1月の大阪商工会議所新年祝賀会の席上、前会頭が提案し、当時の大阪府知事がこれに呼応したのが始まりといわれています。当時は1964年開催の東京オリンピックに向けて、首都圏を中心に高速道路などの社会資本整備が進んでおり、東京に次ぐ第二の都市・大阪としても、東京オリンピックに匹敵する一大イベントを開催することで、地域整備を進めたいと画策したのでしょう。日本政府が万博誘致を正式に決定したのは1964年の11月。東京オリンピックの熱がさめやらぬ時期でした。

大阪万博には、最終的に77カ国が参加しました。これは当時、万博史上最多の参加国数です。東西冷戦が厳しさを増す時代ではありましたが、政治色の強い参加ボイコットなどもなく、世界中の主要国がほとんどもれなく集うイベントとなったわけです。

さて、そんな大阪万博の記憶をとどめさせてくれる一本のビデオを、31年を経た2001年に初めて鑑賞しました。当「1970年少々百科」のベースとなったメールマガジンの読者から寄せられた公式記録映画『日本万国博』(製作・ニュース映画製作者連盟)がそれです。4月29日にNHK-BSでも放映されましたので、観た方も多いのではないでしょうか。各国パビリオンの展示内容や会場中央のお祭り広場で開催された国際色豊かな催しなどが克明に刻まれた3時間にも及ぶこの公式記録映画を改めて鑑賞し、驚いたことがあります。それは、31年も前に、これだけ多様な国々、多様な人種と交流する場があったという事実でした。東京オリンピックにも94カ国が参加しましたが、会期が全然違う。オリンピックはわずか2週間で、万博は半年間にも及ぶものです。

当時の日本では、海外の国々やそこで暮らす人々は実に遠い存在です。360円出しても1ドルしか買えなかった時代、海外旅行は夢のまた夢でしたし、英会話スクールはあったとしても一般人が気軽に通うような今とは違うでしょう。何よりも、町中で明らかに外国人とわかる人を見かけることもほとんどなかった。当時、国内に住んでいた外国人登録者は約70万人(今は約150万人)でしたが、そのうち表面的に外国人と区別がつきにくい韓国・朝鮮、中国人を除くとわずか約4万人(今は約59万人)。背が高くて青い目をした肌の白い「異形な」人間に声をかけられ、道でも訊ねられようものなら、英語ができる一部の学生以外は「ノー、ノー」とかぶりを振るのが精一杯だったでしょう。

そんな時代に生きていた日本人のなかで、いったい何人が会場で外国人たちと交流をもてたのでしょう。そもそも、当時の日本人には、万博会場で国際交流をしたいと考えた人がいったい何%いたのでしょうか。おそらく、ほとんどの人がそんなこと、微塵も考えなかったのではないかと思います。何しろ国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンが始まる直前です。国内でも未知の異文化があったのに、海外の異文化に思いを馳せる余裕とか好奇心なんて、まずなかっただろうと思うのですね。

では、会場を訪れた六千数百万人の日本人は、目の前に広がった異文化の渦をどう見ていたのか。ここからは勝手な想像になりますが、おそらく、世界の中での日本のポジションを値踏みする格好の場だったのではないかと思うわけです。アメリカ館やソ連館を覗いて「二つの大国には叶わないな」、その他の欧州やオセアニア諸国のパビリオンを覗いて「うん、ここには勝ってるかも」、アジア諸国やアフリカ諸国などのパビリオンを覗いて「全然勝ってる、恐れるに足りない」といった具合に……。当時は世界に追いつけ追い越せの時代でしたし、経済や科学技術の面では成り上がり気味にようやく先進諸国と肩を並べたとの自負もあった。目の前に広がった「ミニ地球」を一周しながら、「ふむふむ、日本もいいセンに来ておるな」と、満足して帰っていったのではないでしょうか。

3時間にも及ぶ記録映像を見ながら、日本は大きな転機を逃したのだな、と思いました。万博を契機に国際交流を進め、アメリカ(ニューヨーク)のような多民族国家(都市)への道を選択する方法もあったはず。それが良い選択肢かどうかはともかく、当時はそんな選択肢が生まれていたことすら気づかなかったんだろうな。大阪万博の開催を先導した知識人・文化人のなかには、「万博を通じて諸外国と交流し、異文化を楽しみ、地球規模の平和に思いを募らせてほしい」との願いが少なからずあったことでしょう。でもその願いと、月の石見たさに麦わら帽子姿で5時間も並んだ一般人の願いの間には、かなりの温度差があった。

「国際化」という観点で1970年に開催された大阪万博を改めて眺めてみると、たぶん「時期尚早」だったのだと思います。これがもし、昭和60年頃に初めての万国博覧会を開催していたとしたら、状況はかなり変わっていたことでしょう。大阪万博に次ぐ大規模な万博となる愛知万博が2005年に開かれますが、こちらは反対に「時期遅延」とでも言っておきましょうか。

●関連情報

労働争議にへきえきした?海外パビリオン

6月初旬、会場内の労働争議で初めてのストに突入しました。チェコスロバキアのショーで人気を集めているラテルナ・マジカ劇場で、日本人のアルバイト学生ら従業員40人が決起したもので、労使交渉は翌日に解決してストは無事に解除へ。これに刺激を受けたわけではないでしょうが、会期中に発生した労働争議は実に88件にも及び、会期終了後の11月にブリュッセルで開かれた日本万国博覧会参加国政府代表会議の運営委員会では、反省材料の一つに指摘されました。ある代表者は「我々は招かれて行ったのに、こんな目に遭うとは」とチクリ。当時、会場で働いていた日本人従業員にとって、外国人経営者は交流相手などではなく、労働搾取をする経営者の一人、に見えていたようです。

海外からやってくる観光客への翻訳で稼ぎませんか?

「あなたの語学力を生かして、万博目当てにやってくる外国人観光客への翻訳で一儲けしませんか」と呼びかけたインチキ通訳協会が、登録料をふんだくってドロン。あまりに巧みなサギが3月頃に明らかになりました。世界中から観光客がいっぱいやってくるように思えたのでしょうが、実際に入場した外国人観光客は全体の2.6%にあたる170万人だけ。その3分の1は在日外国人でした。
ちなみにこのインチキ通訳協会を仕掛けた男たちは「万博記念の芸術展を開催するので出品を」と書道家や画家に持ちかけ、161人から出品料など550万円をだまし取るサギもはたらいていました。

●DATA--日本万国博

会期:1970年3月15日〜9月13日
入場者数:6422万人(日本人6251万人、外国人170万人)
外国人入場者の内訳:北米38.1%、在日外国人30.6%、アジア17.7%、欧州8.2%、ほか5.3%

 
当原稿執筆/2001年5月1日
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